[資料] 天安門事件: 事件直前の記事等の翻訳[03] (佐丸寛人・訳)

 もとより、この「人道主義と符合した唯物主義」から直接導き出されるところの社会主義と共産主義は、濃厚な空想的色彩を帯びている。しかしこれは、マルクスが創立したところの科学的共産主義学説は、その哲学的基礎が人道主義と相容れず、更には反人道主義的なものでさえある、と言うのと同じではない。というのは、空想的社会主義と共産主義の中に包含されているそれら人道主義的理想、例えば人の価値を重視するとか、全人類の解放とあらゆる人の個性の全面的自由の発展を追求する等々といったことは、科学的社会主義と科学的共産主義に継承されたのみならず、いっそう輝かしさを増したからである。問題はただ、空想的社会主義と共産主義者について言うなら、これら美しき理想は、資本主義制度の不公正・不人情に対する義憤と直接的否定から出ているに過ぎず、これらの理想を実現する時に頼れるような社会的力とそれによって理想の境地に達するような正確な道を、彼らが見付けられないでいる、という点にある。哲学の面から言うと、これは、彼らが、人生と倫理問題に偏った人文主義の伝統を主として受け継いで発揚したのに、社会歴史観の上では実証科学と一致する科学的理性精神に無頓着、更には欠如さえしていたことと、密接に関係している。
 社会歴史観の上で科学的理性精神に欠けていることが、空想的社会主義と共産主義の哲学方面に於ける根本的欠陥の一つであるなら、科学的理性精神を発揚することが、必然的に社会主義と共産主義を空想から科学に転換させる必要前提ともなってくる。事実も正にこの通りである。マルクスが創立したところの唯物史観からも、彼が創立したところの剰余価値学説の中からも、社会主義と共産主義は以前には無かった科学的理性の精神的内包を獲得した。
 けれども、科学的理性に準拠して社会歴史の発展を考察し、それを自然歴史の過程と解釈することは、確かに、人類の歴史に関して法則に従った科学的認識を人々に得させることはできるが、同時に極めて危険な可能性も隠されている、ということまで我々は見なければならない。つまり、哲学理論の上では、人を卑しめ、更には敵視さえする。思想更には実践の上でも、人と人類を物化、即ち非人道化する。特定の歴史的条件下、例えば、階級闘争とプロレタリヤ革命が、理論だけでなく実践の上でもマルクス主義の主題を構成し、因って共産主義者が追求するところの多くの人道主義的理想が、実際は実践に付されることができず、現実の階級闘争が武器による批判を、革命を仇敵視し反抗する一切の敵に情け容赦なく加えることを客観上要求するような時代には、この危険が現れる可能性は更に大きくなる。歴史的経験が表明しているように、中国を中に含めた多くの社会主義国が、長期にわたって哲学理論上、人道主義を拒絶・排斥・批判したゆえんは、正にこれら国家の絶対多数のマルクス主義者(プロレタリヤ政党の何人かの主要な指導人物を含む)が、当初、主にマルクス主義を革命の道理や革命の方法として受け取り、並びに大衆に伝え広めたからである。共産主義が本来内包するところのたくさんの人道主義的原則、及びそれに相応する幾つかの価値観念や価値基準は、往々にしておろそかにされた。そしてその後、古典的マルクス主義がもとから持っていた階級闘争とプロレタリヤ革命の主題が一再ならず強化されるに従って、人道主義もますますただブルジョワに属するだけの物と見なされるようになっていった。