伝統的なマルクス主義哲学は人道主義を無視、更には排斥さえしたが、これは明らかにその深刻な欠陥である。しかし問題はここだけに止まらない。というのは、事実としてその体現するところの科学的理性精神も、充分でなく全面的でないからである。それは次のような所に現れている。プロレタリヤ政党及びその指導するところの労農大衆には、政権を奪ったばかりの時から既に社会生活を全面的に組織し管理する経験が欠けており、更に幾つかの方面に於いては根本的に存在さえしなかった。そしてその後も、絶えずマルクス主義がもとより持っていた革命主題を強化し、不適時にそして一面的に階級闘争を強調した。伝統的なマルクス主義哲学は、古典的マルクス主義の中に体現されている科学的理性精神を継承はしたが、この精神は、一般的な実践原則への肯定と強調に現れている点を除いては、主として高度に抽象的な理論層の面(弁証思惟)に依然止まっていた、即ち「理論的理性」となって現れていた。このように、いかに科学的理性の精神にのっとって社会生活を管理し制御するかという問題の上で、それが、有るべき哲学的啓発を人に与えるはずもなかったのは当然である。正にこの方面で、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーの「形式合理性」思想は、我々に啓発を与えてくれるだろう。
いわゆる形式合理性とは、主として手段と手順の計算可能性を指す。ここで言うところの「計算可能性」とは、勿論、数の計算を指すだけではなく、他に論理計算も含む。ウェーバーは、最初は経済行為の中に現れているこの計算可能性に普遍的意味を賦与し、それは経済・政治・法・倫理及び芸術等社会生活のあらゆる領域に体現され得るもの、乃ち現代社会構造の客観的属性である、と見なした(蘇国勲「理性化及びその制限/理性化及其限制」pp.227―28 参照)。形式合理性の要求に従えば、経済行為は精密に計算された基礎の上に建てられなければならず、国家の政治生活は手順化されなければならず、人々の行為は法律の支配を受けなければならず、そして法律自身も完備された厳密な体系でなければならず、その中の概念・条文もまた厳しく確定された内容を持たなければならない、等々ということになる。要するに、この合理性が導くところの行動は、最大限の計算可能性を備えている、つまりあらゆる論理上の可能性を極めているのである。こうなると、人々のいかなる行為も理知の制御を受け、形式合理性を体現している法律・法規及びその他各種の規範或は規則体系の範囲を飛び出すことはできなくなる。明らかに、この形式合理性は科学的理性精神と一致する要素を含んでいる。そしてこれも正に我々が更に一歩マルクス主義哲学を豊かにし発展させるのに必要なものなのである。