問: 20年代の科学・玄学(=観念論、形而上学/訳者)論争の時に於ける胡適のように、「西洋人が科学主義を批判するのは、ちょうど肉を食べすぎた人が嫌気を感じるように、彼らの科学が発達しすぎているからであるが、一方、中国は科学技術の遅れに苦しんでおり、従って中国人にはまだ科学主義を批判する資格がない」と言う人もいる。これについて、どのような考えをお持ちか。
答: それこそ流行している浅薄な観点だと思う。この観点は、近代以来の中国の内科病を外科で治そうとしたものである。その実、中国の主たる遅れは、科学技術の遅れにあるのではない。人間の価値と尊厳や、人間が究極的にかかわる重要な意義に、洋の東西の違いはない。文化の価値の系統は、科学技術を中に含む社会経済の発展に対して、内在的な方向づけや制約をする機能を持っている。現代世界の科学人文化の潮流は、近代科学が人文的基礎との分裂を代償にして得た進展が既に限界に近づいたことを、更に表明している。科学の更なる発展は、人文的方面の価値評価と規範にかかわっている。
問: しかし、誰でも知っていることだが、倫理を中心とする中国文化の伝統は倫理を越えた認識論と自然観に欠けており、科学技術は小手先の技芸と見なされ、思惟の様式は直観と以心伝心に満足している。このような国柄では、恐らく科学主義の市場はないのではないか。
答: 正に我々の古典文化に科学の伝統が欠けているからこそ、科学への盲信には特に陥りやすいのであって、それ故、科学主義に市場を提供してしまうのである。近代西洋文明の中国人に於けるや、耳目をくらましたのは主として「声光化電の学」、「船堅砲利の術」であった。一つの外来文化として、科学技術は中国人に様々な神秘や畏敬の感覚をいだかせ、科学を万能のものと見なすように至らせたが、それも自然なことであった。ドイツの哲学者ショーペンハウアーは面白い比喩をしている。「二人の中国人がヨーロッパを遊歴し、先ず劇場に行くと、一人は舞台装置を研究する以外することがなく、一方、もう一人は一生懸命芝居の意味を理解しようとしていた」これが、つまり科学者と哲学者との違いである。近代中国人は世界に向かい、西学を求めたが、富国強兵の功利的目的にとらわれ、そのため西洋に遊ぶ者は多きこと前例を見なかった。しかし、近代の科学主義は舞台の原理を芝居の意味としてしまった。言い換えれば、我々は西洋の科学技術文明だけを見て、下からその文明を支える人文的基礎は見なかったのである。それ故、近代以来、我々の科学への崇拝が始まるやすぐさま強い科学主義的色彩を帯びるようになってしまったのである。