科学主義への批判的考察――王焱訪問
本紙記者 剛建/訳者・佐丸寛人
王焱。文化学、政治学研究者。1953年、北京生まれ。元、雑誌『読書』編集部責任者。現在、中国社会科学院政治学研究所で働く。著訳書『文化と政治/文化与政治』。
問: 「個人」と「個人主義」のように、どんなものでも一度「主義」がつくと、しばしば本来の意味と距離ができてしまったり、更には反対の意味になってしまったりするものだが、「科学主義」とはどういう意味か。
答: 科学主義は、科学の過度の膨張がもたらした自己誤解に基づく。この誤解は、決して科学の活動自身を指すのではなく、科学の性質と科学的方法の限界を理解しないことによって形成された哲学上の誤解を指す。科学主義は道具的価値を持つに過ぎない科学を宗教として崇拝し、有限である科学の原則を無限に拡張する。例えば、デカルトは「精神」を数学と論理学の「知性」にまでおとしめ、ライプニッツは計算は沈思に勝るとみなした……。
問: しかし、人類の文明が今日まで発展してきたのは、正に、日増しに栄える科学に依存してきたからではないのか。
答: そうだ。しかし、我々は科学技術が人類に進歩をもたらすことの潜在力に対して、しばしばあまりに楽観的な見積もりをしてきた。一方、科学と人類の価値・理想との間に潜在する矛盾や衝突については、充分に見積もることができなかった。啓蒙時代の思想家たちは、ニュートンの科学方面の著作を読みさえすれば、放っておいても専制制度を瓦解させることができると思っていた。我々は今日、科学技術の長足の発展を謳歌し、それを人類社会が理想の境地に入るための物質的前提と見なしているが、科学技術の力も歴史の主体によって制御されなければならないという問題の要は、かえって忘れてしまった……。
問: アメリカの社会学者パーソンズは、文明が発展する中に於ける「哲学の突破」の意義を指摘したことがあるが、あなたの意味も、人文的なものの選択と超越とが、歴史の発展の中で大きな役割を果たすということを強調するものか。
答: いかにも。社会研究・歴史研究の方面で、我々が「必然的に」とか「不可抗力的に」とかいう物を使い過ぎたため、精神面に於いて自分から抜け出ようという人間の努力が、全く打ち消される結果になった、とは思わないか。科学主義は、客観・絶対の歴史的理性というものをあらかじめ設定し、社会歴史方面の「法則」を古典力学機械決定論の法則と同じにした。事実上、宿命論の歴史観を唱えてまわったわけである。その結果、人間は、歴史法則がその姿を見せる際の道具となり、巨大な総合的構造物に束縛される一個の部品となってしまった。