問: お聞きしたところ、「国粋」が東アジア経済の成功に尽くした役割をより強調し、欧米現代化の経験が中国に与えた影響はあまり重視しておられないようだが。しかし、一つ私が解けないでいる問題、つまり中国こそ儒家の発祥地で、東アジア各国・各地域と同文同種だし、同じく「儒教文化圏」に属するのに、どうしてそれら東アジアを成功に導いた文化的伝統が中国を貧困から救うことができないのか、という問題を説明していただけるか。
答: それが正に問題点があるところである。自国文化の中の優秀な伝統さえも捨ててしまったような、数十年来の盲目的西洋崇拝と自己卑下こそ、中国の発展を遅らせた大きな原因だと思う。中国人は「中庸」「穏当」を口にするが、実際はずっと「偏向激烈」を好み「極端」を歩んできた。50年代にはソ連モデルをただそのまま持ち込み、現在はもっぱら西洋を見るという趨勢があるようである。ただ東アジアに成功をもたらした「国粋」だけが、我々の中には殆ど見つけられない。現在、勤労・節約の風は日増しに薄くなり、消極・怠慢は随所で見られる。大いに見栄を張って、飲み食いするのは風潮になっている。中程度に発展したどの国家の首都に行けば、我々のようにたくさん豪華な輸入車があるのを見ることができるだろう。「揺りかごから墓場まで」の労働福利保険制度は、事に出会えば国家と社会に依存するという深刻な惰性を人々に与えてしまった。儒教は教育を重視するものだが、日本と韓国はどちらも「教育立国」のスローガンを打ち出したことがある。一方、我々は勉強嫌いの風潮が台頭し、文盲があふれ、教育が本当に重視されていることは極めて少ない。これが中国の現代化に対するもっと危険な障害であることは疑いない。東アジア各国や地域の政府は生産を発展させる方面に主として力を注いでおり、生産以外の問題には殆どかかわらない。一方、我々の政府指導者は往々にして色々な関係の釣りあいを取って、「内輪げんか」を解決するのに主として力を使っている。「官本位」体制のため、多くの知識人は事業の追及よりも仕官の道の方にずっと興味をいだいてしまっている。このような情況下で、中国現代化事業のために考え、力を尽くすことに、社会各階層の人々がどれほど労力を費やすだろうか。私は、東アジアの経験の方が欧米より我が国の国情に合っていると思う。我々はどうして「近きを捨てて遠きを求める」ことがあろうか。故に私は、中国の現代化は西を見るより東を向くにしかず、と考えるのである。
(『光明日報』1988.9.22 [学者答問録]「中国現代化: 西顧還是東瞻?――訪詹小洪」。翻訳: 佐丸寛人)