改良主義・修正主義。中国人は前近代に数々の立派なものを作った(思想に於ける諸子百家、歴史学に於ける『二十四史』『実録』、文学に於ける『西遊記』『三国志演義』、美術に於ける敦煌、建築に於ける故宮、その他、紙、火薬、漢方薬、太極拳、京劇等々)。また、現代でも香港・台湾・シンガポール或は海外華僑社会で、繁栄した世界を築いている。とすると、中国人自身は馬鹿でないことがわかる。となれば、この不肖の子孫・東亜の劣等生中華人民共和国も、改良・修正することは可能である。
というように、以上、一人称形式で、雑駁ながら、その特徴を見てきた。その他、第二派が「民主」という言葉を愛するのに対して「自由」という言葉を愛する、第二派が熱狂的なのに対して冷静、第二派に悲壮感が漂っているのに対して楽観的、第二派が批判精神に満ちているのに対して懐疑精神に満ちている、と言うこともできる。また何かこう掴み所がないような感じもある。
では、ここ数年来どうしてこういう思潮が起こってきたのだろう。それは、やはり開放政策によるものと思われる。日本に留学したところ、初詣でには一つの神社に数十万人もの日本人が行くのを見た。以前は「資本家」として排斥されていた日本の「企業家」「経営者」(これは新しい中国語単語である)の著書が翻訳されるようになったが、それを見ると意外にも伝統的・東洋的な色彩が濃い。香港に行ってきた友達の話によると、垢抜けた喫茶店にも必ず道教の神棚があった。テレビでソウル五輪を見ると、僧侶が鐘をつくところから始まり、開会式では最新式のスタジアムで李朝時代の着物を着た人々が乱舞していた。アメリカから来た専家の家に夕食に招かれたので行くと、食前に彼らと一緒に祈りを捧げさせられた。このような体験は、少なからぬ大陸人、特に権力や知識のある階層が持つものである。また、西側の人文学界では、江戸時代の鎖国を評価したり、フランス革命に疑問を提出するなど、ポストモダンが主流で、「文明開化」「アジア的生産様式」等は時代遅れの概念となりつつあることなども、大きな原因だろう。
それにしても今、私は彼らのことを非常に心配している。6月4日事件が起こるまで、ここ数年来、大陸は、社会主義という枠の中ではあるが、本当に建国以来と言ってもいいほど自由・活発な雰囲気にあった。だから、彼らも実名で、時には顔写真・似顔絵つきで、大胆な文章を発表したのである。しかし、彼らは、鋭いことは確かに言うが、本質的には中国をよくしたいと願っている愛国者であり、中国が世界に誇れる人材である。また、11期3中全会(1978年)が生んだ子弟たちであり、そして何よりも政権担当者と同じく中国人である。中国当局がこの点を誤解しないよう心から祈る。
1989年7月
[了]