偽腔Aは向こうにあるものだが、つねに向こうであることを余儀なくされる。外膜、中膜、内膜と、私は外側から推測する。偽腔Aは三段階の膜層そのものであるが、その本質は充たされたものではない。彼はすでに自分がたんなる肉体の概念であるということを認めざるをえない。そして、そればかりではない。偽腔Aは提起する問題についてつねに何もないところから始めなければならないのだ。それだからこそ。
肉体の部位は実質で充たされているということは不可能なのだ。部位のいたるところは空洞で、部位を構成する細胞も嚢状の構成物である。肉体の思想は空虚から始められている。それだからこそ。
肉体は肉体に語らせよ。このときの肉体とは部位としての肉体である。身体は機構であるが、肉体はぶつ切りの個体であり、想像力を根拠にする個体。そして、生命活動を続ける以上、それぞれの空洞に生か死を選択する意志があるはずなのだ。いや、意識といったほうが明確になるかもしれない。肉体の部位が独立して何かを感じ、思惟し、肉体が肉体の意識をゆらぎ立たせて蠢きはじめる。脚や腕の関節はもとより、内臓や性器、体毛、爪、さらに細胞の一つ一つが自らの意志を、それと気づくこともなく、意志を立ちのぼらせる。
私は何のことについて述べているのだろうか。おそらくそれは、神秘主義や機械主義的な外圧を持たないで立ち上がる部位の、いわゆる肉体の舞踏ということをイメージしているに違いない。肉体に任せよ、ということは可能である。しかし、身体に任せよということは不可能なのだ。肉体は肉体の意識を律動させるが、身体は肉体を統御している。
全面加筆訂正(2011.12.23)