1
私は私の属しているものを知ることはできない。また、私が属しているとされるものも、私を知ることはない。さらに、私が私を属しているとするものを推測 することはできるが、ほんとうは知ることはできない。私がこれらを知ることができるとすれば、それはファシズムということであり、私自身の自由からも、あ らゆる存在の自由という問題からも遠く隔てられてしまったものについてである。
(話をどこから始めるか?)
私はまずあなたに問いかける。あなたは私自身であるかもしれず、また私の隣のあなたであるかもしれない。また、私とはまるで無関係なあなたであるかもし れない。しかし、いずれにしても、私は問いかけるためにあなたを必要としている。だが、私が問いかける事柄はどこからやって来るものなのか。あるいは、い つやって来るのだろうか。そして、ほんとうに問いかける事柄があるのだろうか。けれども、来たるべきものはやはり来るのだという予感はある。しかし。
そもそも、私は何を問いかけて、その問いかけがどのような意味を持つのかをいまだに知ることができない。何を考えようとしているのか、何を始めようというのか、私にはまだ何も見えていないのである。
おそらく、私は何かの一部に問いかけているに違いない。その一部がどのようなものの一部なのかは永久に知ることはないだろうが、たしかに何かの一部分であるということに誤りはないだろう。私の考えはこうだ。私はあらゆる「部分」に侵襲されている。
来たるべきものはたしかに「部分」のうちにあるのだろうし、あなたはその来たるべきものに違いない。しかし、来たるべきものは来ることはないし、いつも私の外側にあるものだ。
また、それは無垢というものと関係があるのだろうか。私が無垢でなければあなたが無垢であろうし、あなたが無垢でなければ私が無垢であるということなの か。そもそも無垢であるということは許されざるものなのか。そして、そのことが侵襲される理由であるのか。それはこちらとあちら、私とあなたがひとつにな ることを拒むもの。