自由とは何か[012]

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 意識、このことばを何の定義もないままに使うことを浅薄だと、私は断定できない。たしかに、感覚と情緒に深入りすればそれはつねに危殆の淵を辿ることになるだろう。そして、そのことでいっそう裏切られつづける。しかし、私はそのことばを、従属する意識あるいは抵抗する意識として使っているのかもしれないし、あるいは反意識という意味で使っているのかもしれない。ただ、だからといってはたして意識ということばを定義して用いているのかいないのか。

 ところで、また別に、幽霊の挿話ではそのことについていくつかの問題が提示されている。すなわち、「形象」が現れる。爛々と光る眼球。長い布を蔽ったもの。暗い空間。形象だよ、形象、これが肝心なんだ、という巽の方角からの幽鬼の声。これらは叛乱の予兆であるのか。そして、意識たちはいまだ頭蓋骨に閉じ込められているのかどうか。私が捉えている複数形の意識は、第一義的には脳内の部位において形成されるもの、次には肉体の部位から神経線維を伝播してくるもの、さらには最下層に棲息するもろもろの細胞から押し寄せてくるもの。これら原意識とでもいいうるものは、脳内で処理され、統合意識となってまたたくまに頭蓋骨に閉じ込められてしまう。しかし、脳内で統合処理されれば、それまでそれぞれであったものがすべてなくなってしまうのだろうか。
 いったい、だれがどのような方法で、そのような削除をするというのだろう。あるいは圧殺のマジック。私は考えざるをえない。細胞それぞれの思いは脳に届くか届かざるにかかわらず、恒常的に発生しつづけて蠢いているのではないか、と。

 また、肉体と意識は頭蓋骨の内部において支配されているのかどうかという疑問。頭蓋骨自体が身体機構そのものであるのか。あるいは身体メカニズムの筐体といいうるのか。それとも、肉体を抑圧する牢獄、その法制化。さまざまの問いかけの前に立ちはだかるのは、頭蓋骨という骨格的根拠である。たしかに骨格という強制と境界は、外界との遮断によって、あまたの肉体部位、細胞、意識を調教し、馴致させるに充分なのだろう。それは暴力的な抑圧、信仰の飴と鞭。秘蹟と犠牲。無知の無知。食物連鎖。ああ! ああ!