連載【第030回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: light cage

 light cage
 それにしても、クオリアは身体の全体的な認識領域なのだろうか。それも、単一の。それこそ、質の異なった、サイズの違った、別の領域を複数個持つと考えられないだろうか。そして、それぞれの世界の関係は矛盾に充ちたものであると。
 そもそも意識が単体と群体で構成されているなら、クオリアはそれぞれの認識の範囲で世界を形成している。つまり、境界構造を持っていて、これがクオリア間、あるいはクオリアの内部と外部の枠組みとなり、細胞膜のようにクオリア自体の矛盾を変成するのかもしれない。

「ぼくが囚われている光の檻は、ぼ、ぼくのつくり出した触手のようなもの、のだ。」
「わたしは、しは、この関係を成長させるために、わたしの、の性を溶かしているのよ。」
「お、れ、が、ぼ、く、たちが多重化すれば分岐する性が発生するのだが、それ、れらを封じて性をどろどろ、どろに溶かして、発生というものをトランスしてしまう、うのだ、しまいたい、たいの。」
「わた、した、ち、変形や変質はそれぞれのクオリアを、さら、さらに多重化する、る。」
「 、 、 、グリロは無の中に、なかに、その道筋を開示するのさ、のよ。」
 そうなのだ。彼らのことばは宇宙卵についての示唆なのだわ。
 何かが混濁しているにしても、宇宙卵は分裂する意識、増殖するクオリアを拝胎している。少年たちはいまだ殻の中にある形のないもの。殻の中にいない形のあるものなのよ。
 そうだとすると、わたしは殻にへばりつく平面意識、同化などすることのない、影さえも失われた孤立した性!
 この平面は鏡体の表面なのだ。それとも、意識とクオリアの境界構造なのか。

 意識は他の意識と激突することで、イメージの牢獄から逃れることができるのではないか。つまり、エネルギーが生成されるということ、発火することによって光を発するということ。

 たしかに、感覚と情緒に深入りすればそれはつねに危殆の淵を辿ることになるだろう。そして、そのことでいっそう裏切られつづける。しかし、私はそのことばを、従属する意識あるいは抵抗する意識として使っているのかもしれないし、あるいは反意識という意味で使っているのかもしれない。ただ、だからといってはたして意識ということばを定義して用いているのかいないのか。
 物質であることと物質でないことにどのような境界があるというのか。(光の檻)

自由とは何か, 2004.8, oil, canvas, F100(1303×1620mm)