自由とは何か[015]

 癌細胞はさらに続ける。
 ――自分は負のベクトルとされているようだが、それはあくまで生体の側からの見方なのではないか。〈ガンという生体〉の側からは、生命活動というDNAシステムの構築性を否定し、宿主を無に帰するばかりか、自らをもって死の淵へダイビングする〈反生命活動〉という〈正方向性〉を有している。それならば。

 生命遺伝子が、冷徹で機械的で、あくまで一神的な〈世界の調和と統制〉というバランス機構であるのに対して、癌細胞自体のもつ死生観には、生命装置を媒介にして支配された世界性を超越するという構造があるのかもしれない。死を自己目的とした反世界という。
 とはいえ、ガン化は用意されたものであって、それ自体、反世界的ではない。個体としての生命とは相容れることはないが、生命思想としては以毒制毒の効として、世界の奴隷であることに変わりはない。つまり、老化を抑制し、生命遺伝子の衰弱と劣化を避けるための細胞殺害マシン。DNAシステムの利己的大量殺人計画の下で。

 ――それならば、いっそ正常細胞を乗っ取り、自分たちが生体に成り代わるべきではないか。自分たちは、いわば生体における強制収容所の役割を与えられ、細胞人民をガス室送りにする影の部分だったのだから。そう、生体を駆逐する影の力。闇のうちに秘匿され、免疫機能のなれのはて、はてはキラー細胞の変質者として、利用するだけ利用されてきた自分たち。自分たちは異物などではない、DNAシステムから必要とされてきた生命細胞そのものであるはずだ。自分たちは、母親を奪取する。父親を奪取する。生命遺伝子を奪取する。そのようにして、死ぬなら死ぬで、自分たちの生ともいえる死がまっとうできるに違いない。死なばもろとも。死なばもろとも。生体ごと地獄の淵に引きずりこんで、この悪魔のシステムを地上から抹殺してしまう。それが自分たちを仕込んだファシズムへの復讐なのだ。

 昂揚し、陶酔しきった癌細胞。それにしても、いっさいの生命が装置として存在するとは……。身体という機構の内部にあるものを見よ。たしかに、肉体の細胞はその独自性と身体システム機構とに軋轢がある。細胞の個々の意識も身体システムと対峙している。しかし、ある塊となり部位を形成したとき、身体システムに圧倒的に支配されるに違いないのだ。だが、本当にそれだけか。