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(短いけれど、ややこしい話)
たしかに生命は自己複製、自己増殖が可能な有機的な生物を対象にしたもののように見える。そして、有機的な生物は脳神経系統を基軸に、化学反応による電磁気の信号によって情報交換がなされている。また、細胞間、遺伝子間で未知の通信がなされているかもしれない。それらの情報は、生理、感情、感覚、知覚などに分類され、脳内レベルで意識として統合されているのだろうか。そして、その過程で切り捨てられる、意識になる前の意識の素材と断片、脳内の使用前の意識領域、リセットされていない意識領域――。私はコンピューターのイメージに近づきすぎるのだろうか。
私が問題にしているのは、意識が身体構造に支配されたものなのか、細胞それぞれに起因するものなのか、それとも意識は意識として自立しうるのか、ということである。つまり、生命とはどこまでなのかという問題。
*意識は生命体にしか存在しないのか。
だが、情報システムとして考えると、自立的ではないにせよ、コンピューターのような無機的な物体も存在している。もちろん、生理、感情、感覚、知覚、意識などは備わっていないから、これを生命系と比肩するわけにはいかないかもしれない。しかし、ほんとうにそうだろうか。
逆に、有機的生物の生理、感情、感覚、知覚、意識などは機械に替えがたいから、これをもって自立型生命を証明できるといえるかどうか。というのは、生理、感情、感覚、知覚は化学反応であるから電気的信号で処理できると考えることはさほど困難ではないからだ。
*問題は意識であるのかもしれない。
私は、肉体と身体に対するに、意識が自立的な存在かどうかに疑問を抱いている。なぜなら、意識も肉体がなければ存在できないからだ。意識も脳神経機構がなければ現れることは不可能だ。結局は、肉体と身体に属しているものなのではないのか。身体機構が滅びれば、消滅してしまうもの。少なくとも細胞がなければ存在しない。意識は永遠ではないのだ。少なくとも生命体とともに滅びる生物学的物質なのだ。
しかし、だからといって、無機物に意識のようなもの、つまり判断したり、あるいは意思があるのかないのかなどと、決めつけられるものではない。ここにきて、私は何を示唆したいのか。