未刊行詩集『空中の書』25: 誘惑

(3)

闇を拒もうとするのか、あるいはそれ自体が闇そのものであるとでもいうのか、何の装飾もない冷たいコンクリートの壁に漆黒の鉄扉が貼りついていた。
建物がはたして大きなものであるのか、それともごくつまらない小さな家屋であるのか、それさえわからぬくらい、建物の輪郭は夜の色に溶けている。扉にはありうべきはずのノッカーも把手も見当らず、さりながら自働式のものでもないようであった。振り向いてみると、いまのいままで、夜の都会の喧噪がもたらす妖しい光や蒼々とした月の光を浴び、ビロードの照り返しのように並んでいた屋根屋根も、また露地の曲り角も、夜闇にすっかり溶け込んで、そこには何もなかったのである。不吉な想いの正鵠さがここに証明されたのだろうか。
ところで、そのような得体の知れない不安のうちに囚われて、何故目前の扉だけが確かなもののような印象を受けたのかというならば、それは闇の中で宙吊り状態でありながら、両の足で踏みしめている大地だけはしっかりと体を支え、そしてなによりも鉄扉そのものの色合いがいかにも深々とした暗黒の色であったからだ。
しようことなくそのきわめて暗い方向に向けて、電話の場所はここでしょうか、と頼りなげな声にして囁いてみた。すると、前に倒れたものか、それとも後ろに引かれたものか、何処かに吸い込まれでもしたのか、あれほど夜そのものであった扉が消えてしまったのである。
替りに現われたのは、なくなった扉の形に闇に浮かんだ仄白い空洞だった。惹き寄せられるようにその仄白い入口に入ろうとすると、すぐ右側に黒ずくめの蝙蝠めいた男が立っているのに気がついた。その男の背が高かったせいもあるが、ちょうど右足から入りかけていたため気配に気づいて右側を振り仰いだときは、ひどくあわててしまった。そのうえ男の顔がただの黒い影にしか見えぬに至ってはなおさらだった。何もいわれたわけではないが、そのとき、後ろの闇に戻れと意思表示されてでもいるような圧迫感すら覚えた。男の表情はいささかも判然としなかったのだが、見えない眸からはそのような威圧する力が発せられていたようだ。
電話で女の方に招かれたのですが、それははたしてお宅のことでしょうか、見当違いだったならば酔払いの譫言か狂人の寝言としか思われぬような唐突な訊ね方をして後悔していた。電信柱に対する確信の一件からすると、自分でも辻褄の合わぬ後悔のしようであるとも考えた。蝙蝠男は、ではお待ちを、と、世の中にこれほどの低音があろうかと思われるほどのほとんど聞き取れぬ声音を残すと、奥の、さらに仄白い光の暈の中に消えていった。
ほどもなく、蝙蝠男は一向にその姿を現わすことなく光の影になって舞い戻り、くるりと廻転して、背の高い痩せた後姿についてくるようにとの慇懃な仕種を見せた。廊下は全体がそれ自身で発光しているような印象を与えたが、蝙蝠男に邪魔されている向こうからの光がどの面にも均等に当たり、一様の反射の仕方をしているのだろう、多角形の宝石にみられる反射光のありようである。

永遠の/果てしない野に/夢みる/睡蓮よ/現在に/めざめるな/宝石の限りない/眠りのように(西脇順三郎「宝石の眠り」)

歩くにつれて蝙蝠男の影の輪郭から洩れる光の強度が増していった。背の高い男の暗黒が光源に向かうにしたがい罅割れはじめ、次第に透き通るように思われた。あまりに脆い光と影との境界がゆらゆらくずおれると、たったいままで先導していたはずの男の背中が消え失せていて、替りに眩い光自体が輪郭を結びだし、ガラスの裸体をもつ女が、いつのまにかこちらを見つめている。乳房が光とともに揺れているのがわかった。