未刊行詩集『空中の書』25: 誘惑

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――土方巽の弟子にして暗黒舞踏第一のダンサー・芦川羊子に

軽い会釈をよこした女の青い瞳がかすかに笑っているのに気づいたころには、透明な裸体だと思われたのが嘘のように、絹のイヴニングドレスに身を包んだ女が美しい腕を差し伸べていた。あなたが電話の方でしょうか、あの優雅なアルトをなまめかしい女の姿態に重ねながら訊ねたが、期待とは異なって、女は澄んだソプラノで答えた。いいえ違います、けれどお招きしたのは私です、電話をしたのは妹でしょう、妹がその仕事をいたしておりますから。女はこともなげにそういうと、ホールへといざな った。仕事――、その仕事とは何のことでしょうか。いささか間の悪い問い方をしたものの、女は細い鼻を少し上向きにして、あら何をいいだされるのでしょう、そんなわかりきったこと、そういってさっさとホールに入っていったのである。
ホールの中は白みがかったような淡い光で満たされていた。喧騒というほどではないが、多くの紳士淑女が上品な身装をして行き交っている。なにやら外国の賭博場にでも来たような雰囲気であった。
そもそも中二階なのか、あるいは天井から吊り下げられているのか、中空に舞台があって、そこで一人の女が踊っていた。踊りは佳境を迎えているようだった。
細い糸のようなスポットライトの光が煙の罩もる空気の襞を射通して、ステージの一点を鮮やかに照らしていた。バロック風の、繊細な、それでいて畳みかけるような旋律が静かに流れている。フットライトが徐々に光度を増していった。褐色のセロファンが貼りつけてあるのだろうか、退嬰的な淡い光の束が幾度となく舞台を舐め廻している。
気の遠くなるような幻惑の装置の中で、ダンサーの体は流れていた。流れているとしかいいようのない微細な曲線を歩いているのである。エキセントリックな、弦楽器の病的な喘ぎが聞こえ始めると、ダンサーは片足の爪先の一点に体重を注ぎ小刻みにふるえだした。獰猛な嵐に逆らって、蒼穹たかぞら を翔け抜けるような肉の振動。緋色の、縫目のない薄い衣裳のふるえが、なによりもその筋肉の闘いを伝えている。
ダンサーの体が栗鼠のように小さくなっていった。どこまで縮んでいくのだろうか。ついに舞台の上の一点の赤い滴となって、そして……。そして次の瞬間、白い貌だけがきわだって印象的に、深い苦悩の皺を泛べて巨大化した。ダンサーの痩せた白い貌につややかな凝脂が漲っている。
沁み入るような音楽が、そのとき破綻をきたした。女の体を包んでいた真紅のドレスが勢いよく四方に拡がり、炎のように燃え上がった。静止していたかに見えた体が独楽のように、三角形に広げられた赤い布の下端を支点にしてくるくる廻転を始めたのである。凄じい速度でティンパニーが叩かれた。聴覚に対する殴打。女は宙に躍った。四肢をいっぱいに広げる。白い肌が眼を射る。宙にありながら激しくターンした。
女の、眉のない、異様にのっぺりとした表情の中に、舞台の、ショーの、すべてが吸い取られ、強烈なライトの洪水の中で、布を介して透き通る白い体が、みるみる光沢を生じていくのだった。
関節と関節がどのような方法で折り畳まれるのでしょう、いや、まるで骨という骨が関節という接点に吸い込まれているようでしたな。人間は脆いものです、魂も脆いが肉体はもっと脆い、その脆さがあの見事なターンを可能にしたのです。私、ひとときも目を離せなかったわ、あそこではすべてが一致していたのですもの、どんな細部も看過すことはできなかった、精神と肉体が、そうですとも、思想と技術とが同じ高みにあったのですわ、それはまさしく、ただ一瞬の跳躍――。
さまざまな囁きの中に知り合いの声も混っていたようだったが、人々の顔はなぜか見定めがたかった。それでも、あちこちのテーブルの上に投げ出されたままのカードの、スーツと絵札の肖像は鮮明に見てとれたのである。