擬宇宙論:4893: 身体というかたまり

身体というかたまり

かたまりというのはレベルがあるようだ。
量子というのはかたまりのことだが、極小のレベルでもやはり「量子論的泡の狂乱状態」(私は「物質の眩惑」という)で、質量のないエネルギー(光のこと)が集積しているわけだし、極大では宇宙が大小の物質を集積させているわけで、人間の身体レベルはその間にあって、特に「生命系」の集積する単位である(ここでは、個々の人間の単位における下層の「生命系」、つまり身体構造をいっている)。
身体とはそのような意味で、人間における身体レベルの統合環境といいうる。そして、この統合環境は、「生命系」を統御するわけであるから、「生命系」とそれぞれ独自の単位のかたまりに分岐される。
たとえば、肉体と意識(精神)などもこの統御機能によって支配されている(いいかえれば、統合環境とは統合機能である)。
意識は直接的には脳と関連しあって、脳の各部位と密接に関連しているといわれる。その脳の部位が相対的に独立していることに応じて、多意識、多人格が独立して存在しているようでもある。
肉体に目を転じると、手、足、内臓などの部位(かたまり)から細胞まで階層を下ることができる。細胞などはさらに異生命の合体物から生成されているともいわれ、タンパク質、DNAなどまで下ることができる。これらを細分化されない肉の単位(ユニット)として、それぞれ独自存在として見ることもできる。
このように、包含-被包含の構造のつらなりでもある肉は、この構造に宿命的に存在する「抑圧と自由」の「食物連鎖」とも無関係ではない。つまり、最下位のレベルから最上位に向けて打ちつづく自由への闘い(土方巽流にいえば「肉の叛乱」)が永遠に重なり、つづくのである(これを私は解放衝動と名づけている)。
このとき、最下位つまり極小のレベルの単位まで降りることが可能であるとすれば、それは量子的見方を抜きにすることはできない。ここでは、量子的選択(不確定性)の問題と自由(解放衝動)とが関係すると思われるのである(もしかすると、自由とは不確定性を指すのかもしれない。また抑圧とは「見方」を指すのかもしれない)。
身体とは生命系の過程(機能?)であるが(ここでの「生命系」は類的人間、生物全体を指す)、生命系はさらに宇宙過程のごく細部であり、この宇宙過程はビッグバンという量子レベルに包含されていく。

[人間モデル]

身体(身体機能):肉と意識の統合機能
  肉体
   肉:各部位?細胞
   意志?(低):原生的選択意志(化学的直接反応)
  意識:脳・神経などの複雑系による化学的抽象反応
   記憶:多層化されたメモリ素子集合
   意志(高):知的活動による複雑化された意志
   思考行為:意志の演算部

生命系:多様化、全体化、個別化
  DNA=複雑系のエンジン:動物/蛋白合成→細胞→神経→脳
   肉への展開
   脳への展開(上位の肉体)
    記憶部
    思考部
   (メモ):利己的なDNAが宇宙の中でビッグ・クランチまで生き永らえようとするならば、ついには肉体を捨て去るという戦略を取らざるをえなくなる。非-生命系の道を選択することになる。生命系は用済みだというわけである。未来のDNAにとっては、肉体はDNA過程に過ぎず、食物連鎖というファシズム過程でしかないのかもしれない。これに対して、肉の最下層、意識の最下層、あらゆるもののアナーキスティックな個別性は生贄になることを断じて許せないのである。われわれは未来のDNA神の囚われの一部なのか、それともここにしかない反抗するモナドであるのか?

[作成時期] 2007/03/12