ある男の日記 (時間洗濯屋)

(序詩)
弱虫め、唸りを咽喉に押し込んで
砂まじりの風が 皺の深い顔を痛めつける
この海から滲みでた潮の匂いが 切なく胸をかきむしる
吼えたければ吼えるがいい
夜の続きは長いのだから
体を切り刻む、愛と憎しみの不毛
焼け爛れた咽喉でさえ
夜の続きは果てもなく 距離の総和よ
弱虫め、褪色したツリガネソウめ
人生の距離に長短はない
人生の距離とは平面で測れない
遮断物など、ありふれた事柄

(ふと、振り返ってみると)その男の影がまとわりついている。しつこくまとわりつく。男の残した匂いが幻臭となっていつまでも追いかけ回す。そのとき、肩にのしかかる耐え難い寂寥感が。それは救済のひとつであるのかもしれない。
彼が知りえているのはその感覚なのだ。現実という悪夢が繰り返される。首吊り自殺の公園、夜の樹木が。ロープを結わえた亡霊たち。彼らは反復を強いられるのだ。箪笥のフックやドアノブ。庭園の立ち木、その枝。鉄柵や格子窓。地下室と監獄。彼らは反復し循環し、消滅の恐怖を目前にする。ここから踏み出すためには狂気と決断が必要だというのに。

彼は吼えつけられるのには耐えられない、弱虫のひとりだ。しかし、銀杏の実は魔女の軟膏なのだ。性を唆すその匂いが媚薬となって彼を鼓舞するのだから。