●Date : 5:32pm 1/ 2/90 From : pcs00372 (直江屋緑字斎)
中南海上層部争いの真相――戒厳にいたるまでの激闘
12 戒厳下の二人
十一時頃、北京市長陳希同が大変昂奮して事務室に戻り、秘書に「素晴らしい、素晴らしい。酒を持ってこい。今日はゆっくり眠りたい。二時に起こしてくれ。その時にもうすでに全部の配置が終わっているはずだから」と言った。二時、秘書は各観察モニターからビデオテープを集めてみたが、どうも様子がおかしい。どの位置にも期待している人影が映っていない。そこにいるのは何千何万の市民だけである。びっくりした秘書は早速、陳希同を揺り起こして、「ちょっと様子がおかしいですよ。どうぞ、ごらんください」と言った。それを見て、陳希同は酔いと睡眠がいっぺんにさめてしまった。三時、李鵬は電話で陳希同を呼びつけた。
翌日の朝、ラジオとテレビは市民に向けて、徹夜して書き上げた戒厳令を繰り返し放送した。中央放送局の人気アナウンサーは気の抜けた調子で戒厳令を読み終えたが、その日のうちに首になった。けれども、大衆からの激励の手紙はどんどん彼のところに届いた。
戒厳部隊指揮部は北京軍区指令長官周衣冰、軍事委員会副秘書長の劉華清と陳希同の三人から成る。
二十一日、李鵬は自ら胡啓立が組長を務める中央宣伝工作指導組を解体し、芮杏文の首をも飛ばした。かわりに「戒厳イデオロギー指導組」を発足させ、王忍之が組長で、副組長は袁木、何東昌、曾健徽、李志堅(北京市委員会宣伝部長)の三人がメンバーとなった。この組は中南海中央警備局の建物に陣取った。
十九日の夜、軍隊高級幹部の親類たちは、夜間、街に出ないようにとの知らせを受けた。李鵬の赤壁の外側にある邸宅にも、それ以来明かりのついたことはない。李鵬一族は毛沢東プールのある二〇二号棟に引っ越したそうである。楊尚昆、王震、姚依林と隣近所になった。中南海の内部にさらに三重の警戒線を張らせ、だれでも面会は絶対禁止となった。
趙紫陽は王震から、勝手に動くなと注意され、すべて中国共産党中央委員会事務庁の指示に従うことになり、自宅で軟禁された。
中央工作組は各省、市、軍区を飛び回り、ただちに李鵬のとった措置に賛同するよう、支持を求めた。