現代詩論 徴候としての現在〈上〉 『明治大学新聞』, 1973

 
 吉本隆明の文章のいずれもがそうであるように、総合的思考あるいは本質的思考に向かっているために、あるカテゴリーを限定して論ずる場合、非常に困難である。というよりも、ある領域での論及と思想へ収束させる相対性とでは論及のベクトルが異質なのである。だから、このベクトルの差異をさらけ出すことによって、領域ごとの検討を浮上させればよい。吉本の思想への全体への論及は、別稿ではたすとして、ここでは「作品言語」に関して論述する。
 まず、この著作の対象となっている「言語」は、吉本の思想的記述を託されたそれであって、独立した〈言語〉のそれではない。だから、これは観念(幻想)と現実との関係性における観念世界の自律を〈表現〉という現実への表徴の側から検証し基礎づけたものとして見做すことができる。ここでの〈表現〉とは観念(幻想)と現実の相渉る〈場〉を意味し、この〈場〉を思想へと転位させるために「自立性」に引き寄せ、独特の「表出」概念に至るのである。だが、この構造の全体を蔽うのは「思想」としての個的観念世界である。ここでは、〈言語〉は機能として捉えられることにより、〈表現〉がより先行し、〈表現〉は「自己表出からみられた」関係の「価値」にさらされることにより、〈思想〉がより先行する。観念(ことば)が現実行為の疎外形態としての出自をもつように、〈表現〉された〈作品言語〉は観念の疎外形態としての出自をもつ。故に観念(幻想)が自律し観念世界を構築する如く、〈作品言語〉は己れの宇宙を形成する。
 吉本の場合、〈作品言語〉を言語の一般性へ還元するために、この関係を観念が内―外的な関係性の故に現実へ「こぼれ出る・出ざるをえない」故に、「出たもの」として扱うため、その関係性を根拠に言語に対する自己の観念(幻想)の優位性をみている。一応は「観念生活にそのまま還元できない」としておきながら、「自己表現」にひきよせ、「文学の価値」自体を単独に扱えずに、故に「文学」作品自体を「表出」に従属させる形で意味と価値とを導き出す。だが、〈作品言語〉が「作者の意識、あるいは精神あるいは観念生活に還元することはできなくなる」いわば、観念自体からさらに観念化されたものであるということは、観念が現実に対してその独自性を発揮することにアナロジカルに、観念に対して独自性を発揮するといえよう。〈作品言語〉が「表現」(現実性)を媒介にして登場するのは、逆にそれらに付随しているのではなくて、それらから全き無縁・異質のものが結果としてそれらを使用しているに過ぎない。〈作品〉が作家とその観念を媒介にして登場するのはそれらに付属しているのではなくて、ついにそれらから無縁・異質のものが結果としてそれらを使用しているからに過ぎない。