現代詩論 徴候としての現在〈上〉 『明治大学新聞』, 1973

 だから、「たとえば文学又は音声による対象的な固定化によって、表出の一般性から突出したものになる」のではなく、そもそも「表出の一般性から突出したもの」が、逆に「対象的な固定化」を通して、〈作品〉となる。故に、言語の意味と価値とは、〈作品言語〉においては、作家の表出からみられた言語構造の全体でなくて、作品からみられた結果としての表現の言語構造の全体である。これは、還元すれば、意味と価値とを無に帰する作品自体の己れの極限へ向かう、彼方から現在を通貫する〈まなざし〉のことである。
〈作品―情況〉論が可能なのは情況を畑にした作品の情況的な切り抜きではなく、作品の生み出す情況を視通すことによって、作品の極限へ向ける加速力をおびき出してやろうというからである。作品が何処へ向かうかははっきりしている。それは、己れの厖大なるエネルギーを収束させて極限の作品自体と成り果てて、全宇宙とともに真っ黒な無の穴へまっさかさまに転落していく。詩人の宿命はその作品の純粋上昇(?)にぎりぎりの加速をつけることにある。時代時代の作品の良し悪し、意味と価値は、ただに錐揉み状態で直進する作品宇宙の襞程度に過ぎず、ついに偉大なる作品はそれらの襞をふるいおとしてその群の最尖端で強大な磁場を恐怖のうちに創り出し、己れ自らまっさかさまに無の穴へ飛びこんでいく魔の帝王のようなもののことだ。
 マルクスのいう〈類概念〉は、まさしくここでは、類として生きて、その類ともども滅亡の無へひきずり込む作品総体の極限を意味する。
 まず厳密に規定しておく必要がある。それは〈ことば〉に対する種々の錯誤を打ち破るためにである。一般に〈ことば〉は、その発生から、日常語、さらに言語学の対象のそれから〈作品〉の宇宙をも含めた形でいわれる。だが、ここでは、〈ことば〉と関係性を結ぶ観念の形態として、「日常言語」(パロール)を交換価値としての語とし、パロールが社会性のうちで共同規範として上昇する過程を学的な対象の言語とし、これらを言語の現実性として包括する。ここで取り扱う言語は、これらと異質の相において、つまり〈作品〉宇宙の、いわば一般の表出を突出せしめて作品へ到達させる〈作品言語〉である。先述したように、観念の産物、疎外態として上昇した〈作品言語〉は、己れの極北へ向かうために〈表現〉という現実形態をとり、故に、観念と〈表現〉へ媒介する言語の現実性に、ある〈関係〉をとり結ぶ。この〈関係〉の総体が〈表現〉である。そのとき作家主体は己れの観念自体をその〈関係の場〉に投げ出すことによって〈語〉を選択・使用するに過ぎない。ここでの作家の〈時間性〉こそ、一種〈あいまい〉な関係性を〈純化〉すべき厖大な歴史性の必然として〈作品言語〉と〈語〉との関係性に〈形態〉的上昇を遂げさせるに至る。まさしく、作家の主体的必然とは、観念を上昇することによって〈作品言語〉として遍在する作品宇宙(発生の根拠であると同時に全体性)と〈語〉を媒介することによって到達する現実との狭間において、それらとの相互的な関係性を唯一保有し得ることの帰結だというに過ぎない。それは、まさしく情況の時間によって前提化されたものに他ならない。〈先験性の闇〉(北側透)などではなくて、「開かれ」、まばゆい昼光にさらされただけの「先験性」というべきであろう。それらの明視されつづけ、それこそ風化したものを手触りして試行錯誤を繰り返したところで、得られるものといえば〈検証のがらくた〉に過ぎない。