現代詩論 徴候としての現在〈上〉 『明治大学新聞』, 1973

「つまり、入沢の言う《ヴィジョン・感情・思想・体験・その他》とは、人間が《彼の生活行為そのものを彼の欲望および彼の意識の対象とする》ことに、その発生を関係させているものにほかならず、幻想としての人間が、人間であることの確証としてもっているものである。まさに幻想とは幻想化された存在であって、その意味では、たしかに《詩人はまず表現したいもの》を持つわけではない。《表現したいもの》をもつとしても、詩人とは表現せざるを得ないところまでその幻想の内部の時間性がボルテイジを高めている人間であるといった方がいいだろう。そのようなものとしての幻想的生活、その時間性の累積を詩人はまず持つのである。持つといっても〈表現〉と離れて持つことができるわけがないのだから、持つことを〈表現〉の過程としているといった方がよい。」(北川透『仮構詩論へ向かうノート11片』)

 
 たかが、詩人の思想とか存在が詩を超えるなどと考えただけでも胸糞がわるい。「《表現したいもの》をもつとしても、詩人とは表現せざるを得ないところまでその幻想の内部の時間性がボルテイジを高めている人間であるといった方がいいだろう」。この文章における用語がかなりあいまいであることなどヤユしたところで始まりはしないから、北川の思いつめたまじめさを汲んで、読み取ろう。そうすると、詩人とは個的幻想性の時間性を共同の時間性と拮抗しうる水準にまではりつめさせることによって、ボロッと、ウンコのように詩がとび出してくる人間とされる。ウンコをしたいなら、何も腹が膨れてからするようなガマンなど必要はない。時期に合わせてしたいときにする方が健康的だろう。それほど高めるべき心的時間性が詩人にあるとは思えないが、それほどボロッと出したいなら政治的な駄文を書いてストレスを解消したって変わりはない。人工的な方法で、浣腸液などたっぷりつぎ込んだり、下剤でもって慢性下痢症状を満喫すればいいだけの話だ。そもそも「表現せざるをえない」ものが《彼の生活行為そのものを彼の欲望および彼の意識の対象とする》ことに、発生を関係させ、人間であることの確証としてもっている《ヴィジョン・感情・思想・体験・その他》であるならば、なにも詩的表現によらずともさらに現実的に近い表現形式が可能なのだ。作品と「言語の思想」とが切れない関係で結ばれている人間が、そこで「何故に詩なのか」をいうよりも、詩のほうからそれらを払拭するに過ぎない。