このとき、〈沈黙〉はまだ発せられていない、閉じこもりとしての魔的に変形された恐怖の言語に満たされているといえるだろう。何故、恐怖の言語であるかといえば、それが何らかの〈共同体〉や〈集団〉内部の禁忌に触れるため、〈発語〉の水準でおさえられて内部に逆表出されるように閉じこめられているからである。それ故に、〈沈黙〉を意味性としてみるということは、〈共同〉なるものの〈禁忌〉のために、黙せられるという受苦が、〈発語〉という能動性に規定されて、個体の内部に向けてのみ、逆表出される不可視の魔的な言語としてみるということもいえよう」(同)
この北川の〈沈黙〉に関する考察は、詩人を書くことに衝き動かす〈何か〉をみつけ出そうというためのものである。しかし、ここで扱われている〈言語〉の水準は、詩人が社会的存在であるという現実性における〈情況〉の言語という水準である。だから、〈作品言語〉が〈情況〉に包囲されている詩人のもの、という直結・短絡させて得た命題を〈情況〉のレベルから検証する作業とみてよい。北川の使用する、〈言語〉とか、〈沈黙〉とか〈魔的〉なるものは作品の〈ことば〉の水準から大きく転落している。故に、ここであげられている〈禁忌〉は〈共同性〉と〈個〉の関係性として、それが〈作品言語〉への構造的な展開へ転換されるものとしてではなく、それ自体を無媒介に裸のまま〈作品言語〉へ紛れ込ませているに過ぎない。〈沈黙=人間的受苦〉というのは、世界を凍りつかせるために媒介的に機能させる言語という思想の現存性のことであり、〈発語=人間的能動性〉とは思想が現実に転換される結果としての自己思想の表明である。だが、これらは個々の思想の遍在を本質論と現象論にふりわけていっているだけで、作品世界へ向かう言語の問題とはせいぜい相対的な、あるいは詩人の独断的な動機としての関係にあるだけのことである。また、こうした思想への発想が思想の自律へ向かうことも不可能であろう。「魔的に変形された恐怖の言葉」とは、書くことの根拠を自己の意味へよりかからせる機能にあるのではなく、〈作品言語〉が作家をおびき出しあらゆる妄想を自己に還元しているという、思わせぶりの仮象の形態をいうのであって、そんなものは己の存在を震撼させる恐怖なのではなくて、〈共同性〉に叩きのめされる程度の軽い政治的表明でなくて何であろう。この北川のいう〈情況〉とは〈共同規範〉によって完全に蔽われているということをいっているだけであり、〈失語〉とか〈空語〉とかの〈発見〉は「どんなに私たちの〈情況〉が苛酷であり絶望的であっても、人間の〈本質力〉についてそのようなイメージすることを失っていくとき、わたしたちは必ず、内的な抵抗力を喪失していくことになるだろう」(同、四二ページ)というアジテーションにつながっているだけであり、吉本隆明の〈沈黙〉の考察が共同規範の構造的な展開に充ちているのに比すならば、何をいうか、である。(以下、次号)