ここで、北川は詩人の表現の根拠を他者に規定された自己創造という関係性にみている。ここでの彼の把握は、「自己と自己、自己と他者」という関係性のうちで〈何か〉に衝き動かされた存在として詩人を規定する。だが、この把握はそもそも〈作品言語〉を詩人の内的世界にとどめたものとして捉え、そのため詩人の意識を相対的に規定する〈情況〉(この場合は、生活という包括概念として)、切っても切っても切れない絶対的な関係性としてこれに引き寄せる。無論この発想にみられるのは、作品が、詩人という情況的存在を通過し、〈表現〉という五感のいずれかにおいて感得できうる形で現出するという、作品の外皮に(結果として現われざるをえないものに)思いをかけるところからくる。だから、それが作品の内容として入り込んでくる場合に、意味と価値が、〈情況〉の側から問題となるのである。北川の詩的シェーマは次のようになる。まず、詩人の現存性を情況という関係概念で措定する。次に、詩人の意識の領域から作品を自己意識の自立した世界とみる。さらに、作品は言語によって眼前に提出されるのだから、〈言語〉という共同規範に蔽われる。だから、単一の個が情況の中でどれだけ個を実現できるかというシェーマとアナロジカルに作品を情況に対応させている。ここでは〈情況〉が作家から作品を均質に蔽う絶対性として提出されているに過ぎない。だがこの〈情況〉円環は、まず意識の領域における作品との関係を直結するという錯誤によって切り取られる。というのは、たとえ自己意識と作品との関係の中に対象化した自己を鏡のように措定しようとも、〈作品言語〉は情況に規定された自己意識との相対的な関係性をもつとはいえ、絶対的な関係としてはない。仮に絶対的であるとするなら、それは〈作品言語〉を機能的に使用する場合である。作品における〈言語〉は自己意識を機能的に伝達するものではなく、〈言語〉が自律運動を展開する、作品へ向かう総体の構造から、〈表現〉としての〈ことば〉という結果を示すだけである。ここではっきりすることは、詩は作家主体の「自己表現」などではなく、「自己表現」などというのは外皮であり結果でしかなく、ついに詩は作品―言語自体の形態的現実なのであるということであろう。
現代詩論 徴候としての現在〈上〉 『明治大学新聞』, 1973
「こうして、私たちの時代の《ヴィジョン・感情・思想・体験》の高さと深み、その豊かさの水準を規定してくるものは、太初以来の人間のこの幻想生活、その時間性の累積である。しかも、この幻想生活の累積そのものは単に個別的にあるわけではない。私たちは〈自己〉を創る。その同時過程において〈他〉を創るのであり、言いかえれば関係(他者)に規定されてしか自己創造はありえない。そして、この個別性と共同性との矛盾を媒介的に止揚しつづける意識の〈運動〉領域に、私たちの一切の〈言語表現〉があるわけである。もし〈言語→表現〉が単に自己創造的なものでしかないなら、それは動物の生活行為と変らず、そのことにおいて、それはまた本来的に〈自己〉を創り得ない。そこでわたしたちは、みずからの〈言語→表現〉のうちに自己本質をみると同時に自分に対しては〈表現〉が〈他者〉として、あるいは関係性としてしかありえぬことを見ることになるのである。こうして、自己と自己、自己と他者との二重の関係において、詩人が表現せざるをえない〈何か〉に突き動かされた存在であること、そのこと自体は否定しようもないはずである」(北川透『〈像〉の不安』)