現代詩論 徴候としての現在〈下〉 『明治大学新聞』, 1973

「詩語はあきらかに感情から流れ出したものでありながら(むしろ感情をその母胎とすることによって)感情の全体を包摂しえないという構造を持っている。」(前掲より)

 
 詩語が感情をその出自とするならば、詩作品自体は詩人の感情から一歩もぬけ出ることができないばかりか、詩語を包摂する感情の流露としてしか存在しえない。それならば、「言語共同体」(感情共同体の誤りじゃないか?)という交換性にその価値を見出すものに対して、感情の交換という不可能性を強いることになり、それ故にその代償行為としての作品を生み出すしかない。そんなところに詩の自律する場などありはしない。
 郷原の「感情」ということばは、認識の概念と行為とを無造作にくっつけた程度のものでしかない。

「人間の感情は眼前の事件や事物に促されてたえず複雑重層化し、その重層化のきわみにおいて今度は逆に事件や事物を新しくつくりかえるようなものとして存在している。」(同)

 
 この部分を論理的にケチをつけるのは易いことであるが、ここでは常に〈真意〉を汲み取るという一貫性のもとに批判を進めていく。すると「感情」は対象物をとり入れそれによって「重層化」し、逆に対象物を「つくりかえる」ものとして「存在する」とされる。ここでは「認識」と「反応」を、坂を上り下りするようにとり扱っているものが「感情」であるというのである。すると、人間の諸活動一般が「感情」に支配される、つまり「感情」は人間の全体性になるというのか。この「感情」の全体は、作品―作家までをも包み込んだものとして膨れ上がっている。それは「感情」によってあらわされる「発語主体」ということばに示される。そもそも郷原は、一般的な人間論から「発語」と「主体」を導き出し、そのあたりで「思想」とか「言語」の問題を無媒介に注入し、無造作に「作品」と「詩人」の問題に直結させていくのである。だから、この「発語主体」というのは、「人間論」レヴェルにおける「感情」=人間の裏に見え隠れする人間もどきということになる。というのは「感情」という人間の全体性に代弁される「主体」に過ぎないから。人間もどきの「発語の根の喪失」なんて、まるでお話にならない「事情」なのである。