現代詩論 徴候としての現在〈下〉 『明治大学新聞』, 1973

 意味と価値による現代詩への幻想は、思想を抱えもって異端の果てから正統へと成り変っていくことによって終了したとみるべきである。そのうちで、「状況」ということばをよく口にする北川透などの「批評家」の、少なくとも異端の受苦を被った己れへの思い入れをふり切れない「状況」無知は、よく批判しておかねばなるまい。また、詩と思想という主流の波に乗っかっているエピゴーネンの小共同体など、そのままでいられぬことは肝に銘じておくべきだ。ただ、そうした連中のうちで、批評家としての岡庭昇は、こうした作品―情況をよくものしているという点は特筆すべきであろう。

 岡庭昇の現代詩詩手帖七三年二月号「〈芸〉と規範」における批判の構造は〈芸〉というシェーマに見出される。

「あらわしえないものをあらわそうとする苦しみのリズム、規定できなく規定することの断念をうつす喩、こころの規範をこえてしまった世界の荒涼に促されたことばの非連続性、といった表現的な『所産』が、自分自身によってこんどは技術的な『コツ』『サワリ』としてえらびなおされる……(中略)……《芸》の誕生とは本来このようなものである。えらびなおされた『コツ』や『サワリ』としての喩、レトリックは、それが転倒する以前にもっていた体験と言語の拮抗の錘りにごく抽象的に支えられて、その『現実性』を保証されるのにほかならない。」

 
「表現的な『所産』」とは何を指しているのか。まず、岡庭は「表現」というところにかかずらわりすぎる。というよりも、「表現」をそれこそ現代詩の決定的な内実としている。だから、現代詩とは「表現しようとする」ものから「表現された」ものの転換の全体であり、「表現主体」から「表現の現実性」へ転換される全体である。言い換えるならば、「表現者」の内的イマージュが現実性へ還元されることの、結果としての「表現」自体の絶対性の前であえなく裏がえり、裏がえることの固執としての拮抗を、まさしく「表現」そのものの中核としているのである。現在の詩的状況の中では、「表現」という絶対性をタテに意味と価値からする作品批評はこうした見解がぎりぎりのものとなるであろう。だが、「表現」とは「作品」の本質というよりは、それ抜きにしては存在しない「外皮」である。それは「作品」が「表現」の媒介なしには存在しえないのと同義である。「表現的な『所産』」とはこの「裏がえることへの固執」を意味している。だが、この「裏がえることへの固執」は「表現者」にとっては個人的な事情ではあっても、「作品言語」にとっては振り返る要もない「作品」にうつりかわる以前の、「作品」の初発に押しつけられた動機である。これに対比されている〈芸〉とは、これが、結果としての「表現」から要請された何ものかへと転化する過程を示すようである。無理にいうならば、〈芸〉とは「表現者」の個人的な事情の側と「表現の現実性」の側からの言語決定に対するオブラートであるとなる。