この文章において、果たされるべき作品―情況の洗浄作用は、だが初期の目的から少なからず外れている。何故なら、戦後現代詩の総括的立場に立つならば、六八年の現代詩手帖に連載していた、月村敏行の「戦後史への接近・序」をこそ批評の対象物とすべきであったこと、入沢康夫から天沢退二郎に至る〈作品行為論〉の提出された情況をこそ直接に論述せねばならなかったことがあるから。だが、ここでは、戦後現代詩の〈伝統〉を見事に展開した月村の前掲の文章を念頭に置き、〈作品行為論〉に惹き起こされた情況の反応のパターンを取り上げることによって、少なくともこの論述の使命は果たされたとみることができる。
意味と価値からする現代詩への幻想、あるいはそれ故の主体への開き直りは、その根底に巣くっているものこそ、抒情へ回帰していく、詩人の側のロマンチシスムであり、それが「思想」とか「生活」とか、「沈黙」とか「情念」とかに姿を借りていわれているに過ぎない。その生真面目な相貌こそ、「作品言語」と己れとの乖離によって生じたナルシシスムである。そのナルシシスムが「伝達」へと向かい、それ自体の共同性のレヴェルに転落していくときこそ、「伝統」を背負いこんだ〈芸〉として開花するのである。この「芸」は、まさしく抒情のひきうつしであり、「作品言語」が己れの未来へ駈け昇るときの凝縮した凄絶なエネルギーの形態とは、およそ無縁な代物である。
付記するならば、抒情の伝統に乗ることによって、「芸」という流行のうちでエピゴーネンとしてしか存在していない小共同体(「あんかるわ」「白鯨」「詩と思想」その他諸々)の若きエセ道学者の化けの皮など己れ自らひんむかざるをえなくなるだろう。
次の澁澤龍彦の卓越する文章を自己崩壊へ徴候する現在に向けて捧げ、この文章を了とする。
身も蓋もないようなことを言ってしまえば、本物の詩人でない詩人は、さっさと詩なんぞ書くのは止めてしまった方が賢明である、ということだ。私たちは、それほど多くの詩人を必要としていないのである。」(現代詩手帖六八年三月号「詩を殺すということ」)
(了)