現代詩論 徴候としての現在〈下〉 『明治大学新聞』, 1973

 
「現代詩とは何か」という問いを根底的に純粋上昇させてみる要がある。それには何よりもまず、芸術性一般を分析的に位置づけ、概念として抽出してみなければなるまい。芸術性一般の発生とその展開は、「疎外概念」と切ることのできない関係の全体として存在することは言をまたない。その意味では、物的な存在である人間から、観念へと転出する構造自体にその発生を因んでいる。だが、この発生(転出)したものが「還元」されるとき、これは物的世界の構成部分となる。だから、「還元」されうる「観念」は物的世界の交換過程を媒介に、「観念」と「観念」の、あるいは「観念世界」と「物的世界」との交通を実現する。ここで記しているレヴェルは、絶対的な関係性として存在する、物的存在に「価値」として現われる観念の関係形態のそれである。こうした交換価値(伝達)としての観念の諸形態は、音声とか、文字とかの物的基礎をもつに至る。共同規範としての言語のレヴェルとは、この交換価値としての言語を根拠にした観念の形態であり、それは「意味」としてこの交換を決定づける。言語がこのように「意味」に決定づけられた「価値」として登場するうちで、最高の整序された構文は「法文」であり、この面からみられた個の言語とは「思想的言語」を指すのである。「思想的言語」は個的な実存の契機を対自的に迫りうるものではあるが、それは己れと世界との関係性の水準を示すに過ぎない。
 だが、「疎外」が、物的なもの(労働)、観念的なものとして現われ、転化した実存としてそれぞれ独自の世界を形成していくときに、この観念的なものから「還元」という関係を生み出した「ことば」は、何よりも物的なもののあらゆる制約、ついでそれに規定された観念の制約から、独自な、逸脱した、つまり、「意味」に決定づけられた交換「価値」とはおよそ無縁な領界に突出していくのである。これを保証するのが、物的存在としての人間から、これに相対的に関わる観念世界を通貫し、「ことば」の自己運動へ向かう階梯であることは明白である。これを繋ぐ唯一のものは、現前する形態としてのサンタックスである。そして、これらは無限に乖離していくことによって同一化するという極北を覗くならば、それらの自己消失へ向ける運動以外に上昇はありえない。「詩人」が関係しうるのは、この全体性へ向ける「記述」の行為である。「書くことを生きる」とは、まさに詩人にとっての至言である。
 では、「現代詩とは何か」というならば、それは詩の向かう全体性への尖鋭的な己れの形態であるといえる。「芸術性」とは、「意味に決定づけられた交換価値」にあるのではなく、それらを払拭することによって己れを言語の自己運動にとびこませることにある。