現代詩論 〈岐路・迷路〉 その2 『明治大学新聞』, 1974

 回帰の構造とでも名称けうるべき現代詩の限界とは、実はいかなるものであろうか。この稿においては、この限界の構造自体を呼び水にして、限界の彼方を指示するという任が課せられている。「伝統と芸」という視点は、まさしくこの呼び水の役に適している。それゆえに、前号に引き続き岡庭昇の「成熟の構造」(現代詩手帖七四・二)に触れるのである。
 さて、考えてみるならば、「伝統と芸」からの逸脱ということは常なる詩人の課題ではなかったか。それは詩人の側にとって、おそらく「態度」としての問題に包摂されるものである。前に述べた「伝統のひきつぎにおける作家の関わり方の絶対性をいう」ところの態度ですら、肝心なところが、詩人たちにあっては欠如しているということほど無残なものも、また、ないのである。
 ところで、発生的な事柄に関与しながらある軸の措定について考えてみよう。まず、「芸術」とは何なのであろうか。それは果たして、わずかにせよ人間社会の、一種効用的なものなのであろうか。また「社会的人間」に何らかを寄与するものなのであろうか。仮に「芸術」なるものの発生が「祭」にあるとして、だがこの「祭」なるものがそのものとして何なのであろうか。少なくとも、この「祭事」なるものが、生産、階級という人間的営為の結実を示すものであるならば、この結実そのものが供されるということは何なのか。ある共同的な指標そのものがそれらの目的であり、他のものは派生的であるとしてもよい。だが何故に結実が人間の側から供されるのか。要は、「芸術」とは人間存在のうちに果たしてあるのか、ということである。また、この曖昧な語法を改めて「作品言語」と明記しよう。そしてこれを「芸術」なるものと峻別してみよう。
 さて、「作品言語」は通用語という、生産的、現実的、代弁的、機能的なものとは異なる、それらを除外して存在する何ものかである、と仮定する。そしてあらゆる附帯物を取り除いたものは、意味もなく、価値もなく、ただ「無」である。例えばこうも考えられる。ある祭事において捧げられる「うた」は、そもそもそのような社会性に対して、その社会性を一点に集中する非社会性である何ものかへ向けられている、ということ。また派生的にせよ、語の社会的な効用から大きく隔たってゆく何ものかへと己れを向かわしめている、ということ。