現代詩論 〈岐路・迷路〉 その2 『明治大学新聞』, 1974

「私たちは、すでにみてきた『成熟』に伴う、ことばと表現者との宿命的な自己放棄=自己仮構の方程式において、『作品』という聖性が、仮構のキイ・ワードであったことを、すぐ想いだすはずである。」(同)

 
 というように、作品の仮構、あるいはことばの仮構・表現者の放棄が、このように「表現者との宿命的な自己放棄=自己仮構」として、表現者に絡ませ、組み込んでゆく。この方程式が成立しえないのは、それぞれの、「ことば」「作品」あるいは「方程式」が、その前にかならず「表現者の」という語句が貼りついているからである。ここでの「成熟」とは、「主体を保証するために主体を仮構し」、その構造とはそれゆえに「強いられたことばの体系」とされている。それはまた、「現実とふれ合う手前でかならず停止するようにしつらえて、現実らしさを仮構する方法」「現前する世界から切り離されたことばを作品へ向けてかたちづけ、現実らしさを、律・喩の型の伝承としてひきつぐ」という形で、「コツ」として述べられている。だがこれらの分母にあるのは、すべて「表現者」である。ということは、岡庭のこの文章において、その根拠となるものは、〈芸〉の論理を「成熟の構造」に置き換え、そのことによって詩の現在を指示する「伝統と芸」との関係を捨象させ、芸を指示する成熟という、表現者幻想へ転換していく。このあたりで、とうとう本音を吐いたというべきか。というのは、前述した、作家主体―表現を先験的な鍵とする、ということは、実はこの作家主体―表現のレヴェルが、岡庭のいう本質性としての「表現者」(思想者)の「アイデンティティ」なのであり、これがすべての根であり結末であり、まさに思想の最優先主義とでもいうべきものであるからだ。だから裏を明かせば、結局のところ、示唆的な「伝統と芸」の構造的なからくりが、「成熟」というひきこもりによって、己れの先験性に回帰してしまっているのだ。