現代詩論 〈岐路・迷路〉 その2 『明治大学新聞』, 1974

 現代詩この瘤とは、まさしく現在の全体である。この全体の構成とは、ひとつには過去を包み込んだという現在の詩の伝統性であり、さらにはこの伝統のひきつぎを基礎にした詩の固定化である。この関わりこそが、円環を結び、作品を恒常的に閉じ込めてしまうのである。だから、流布されている「これは詩だ」というものこそ、この円環のうちに死なしめられている。というのはそのとき、その詩は円環のうちで受容性によって形成されているにすぎないから。そしてこの伝統性を構成するものは、つまりこの円環を逸脱しえないもの、円環に受容されうるもの、制御されたもの、自律性を圧迫するもの、なのである。それは例えば、あるひとつの規範性である。だからそれは現在の薄ぺったく押し潰され、そのことによって稀薄になってゆく、そしてそのことによって受容の支持を克ち取る、またそのことによってこそ円環を保証する。その円環とは、まさしく詩の外部へ向けてする表白の記述なのである。それはまた、この外部へ向かうゆえにこそ、感動という関わりの基準を設けるのである。だからこの伝統性とは、作品と作家の関わりの現在性であるといえよう。作家は詩の内部、その彼方へと関わりゆくというのではなく、それを擦り抜けて、詩の外部、つまり作品という鏡に映した作家の貌、あるいは作家の背後に映っている読者の貌に関わっているに過ぎない。それらはまさしく「関わり」の虚像とでもいうべきものである。この擦り抜けるということこそが、その補佐的なアリバイ工作を必要とするのである。だがそれらは永続的な擦り抜けの循環運動であり、そうした循環運動の中で書き継ぐために、そのアリバイ工作を根拠として絶対化してゆく。だから詩の現在とは、先験性の絶対化という循環の襞の絡み合いのトータルの中で揺動し、その揺動の末に硬化し、ぼろぼろと崩れゆくのである。こうしたアリバイ工作の主要なもののひとつは「感動」の絶対性である。「感動」とは、実はその「感動」の現場の水準を抜きにして、「感動しない詩は、詩ではない」というように用いられている。
 だがこのとき、「感動」とはある通用的な基準でいわれているに過ぎず、作品の本質性とはおよそかけ離れたものでしかない。というのは、作品を通して、作家が読者の貌を見、読者が作家の貌を見るという、作品自体を擦り抜けたものだから。だからこそこのときに、作家の抒情・思想・生活・体験・その他を、作品を仮りて、それにひき写してゆくのである。こうして、そのひき写しの技術論が「芸」として開花するのである。(或る達人が、これもある老練な詩人の凝りに凝った作品の評を請われたときに、実に良くできている、天才でもこのような光沢は出せますまい、実に良い、鈍才が努力に努力を重ねて仕上げた、燻し銀のごとき作品である、と述べた話を記憶しているが、「芸」の本質とおよそこのようなものであり、尖鋭なる詩人とはおよそ無縁の世界のもののようである。)またこのようなものがさらにアリバイ工作を続けていくときに、実にそれらの補完物として「表現の絶対性」に依拠してゆくのである。