通用語というレヴェルでは、現実の支配法則によって語は規定されている。そこでは、その現実と相対的な存在としての話者の内的世界のひとつの断面としてしか、聞く者の内的世界には位置づけられてはいない。だから通用語という形を仮りて内的世界を表現するということは、内的世界にあって、ある種の現実との拮抗関係として対自性をもつが、現実においては意味と価値というバロメーターによって交換される記号に過ぎない。だがこの関係が、作品の仮定による作品言語の措定によれば、現実との関係においては交換されるべき記号であり、それが作品の断面であり、作品の相対的な独立した世界を想定でき、作品言語と作家との受感の構造もまた、そうした関わりに類推的なものとなる。これは何を示すのか。つまり現実(表現)のレヴェルにおいては、どちらも流通的な価値に過ぎず、だがそれらの通用語と作品言語とを峻別するところの、レヴェルの限定性の問題が示されてくるのである。それはまた、作家の内的世界においても、内的世界の全体性と語との受感の構造とを峻別するレヴェルの問題なのである。「表現の絶対性」という補足的概念に関しては、このレヴェルの問題を浮上させるための、作品言語の仮定による逆照射もまた必要なのである。
このようなとき、岡庭昇は「芸」の論理を唯一、キイ・ワードにして、作品―情況へ踏み込むわけである。これはまず、「技術的なコツに従って、ことばから認識を表現から生を切り落としてきた系譜」として概括される。ゆえに、「技術的なコツに従って」という「芸」の表徴に対して、「分析的」にそれへ向けてそれ以下の文章を取り込んでゆくのである。それは次のように分離してゆく。前者の表徴に対する視野には、「文学的な『成熟』へのコツ」と「形の仮構」ということがいわれ、後者はその根拠づけとして、「生と表現の、現実を体験することとそれを認識のコードに置くことの、宿命的な裂け目に根ざしたもの」とし、さらにその根拠の根拠づけとして、「思惟することと即自的な生との分裂から『自我』を守る」という「自己保存の論理」をも組み込んでゆくのである。これはさらにまるで系統樹のように分化して、根拠づけの永続性のごときに至る。だが、根拠づけの対象は、この系統樹を天地をひっくり返したようにその上に蔽い被さり、まさしく永遠の循環性を持つに至るのである。だからこそ、こうした「芸」の論理は、さらに「成熟の構造」として分岐してゆくのであろう。