[資料] アピール! 天安門事件: 03(中国人活動家・著)

●Date : 1:17pm 10/14/89 From : pcs00372 (直江屋緑字斎)

中南海上層部争いの真相――戒厳にいたるまでの激闘

 2 死さえ恐れない人々
 一九八六年の末から一九八七年の初めまで、二週間ぐらい続いたデモンストレーションは全国の三十余の都会に波及し、百以上の大学の学生たちが参加したが、総書記・胡耀邦がやめさせられて、おのずと終焉してしまった。それ以来二年の間、大学生たちがそのことについて自ら後悔し、自責し、反省していた思いは、胡耀邦の突然の死という悲しみの極まりの中で、突然、嵐のように爆発してしまった。
 一九八九年四月の中国社会の情勢は十三年前の四月が「輪廻」したようになった。最初は学校キャンパス内の大字報にこう書かれていた。「毛沢東の息子は前線に赴き、林彪の息子はクーデターを企み、鄧小平の息子は寄付を乞いまわり、趙紫陽の息子はカラーテレビをころがす」
 天安門広場の人民英雄記念碑のもと、人民大会堂の前で学生たちが出した七点の要求から、今回の学生運動と以前の運動とは性格が違うということがわかる。今度の学生運動はある特定の人間を打倒し、あるいは擁護するためのものではなく、体制を翼賛しながら汚職官吏を打倒し、清廉潔白の官吏を呼び起こそうとするのでもない。今度の運動は政治体制の変革を要求し、民主化のテンポを早めようとするものである。そのような明確な政治目標と広範な大衆的基礎は、今回の学生運動がかつてない偉大な歴史的役割を持っていることを決定づけている。
 一カ月半も続いた学生運動は「四・二二」「四・二七」「五・四」「五・一三~五・一九」の学生ハンガー請願から、「五・一九~……」の軍事管制反対、戒厳令の撤廃という全北京市、全国の各階層の学生を支援する愛国民主運動へと発展してきた。学生の、民主を求め改革を推進する行動を、「憲法に違反し」、「根底から中国共産党の指導と社会主義制度を否定するものである」と決めつけた「四・二六」人民日報社説と「五・一九」の深夜に開かれた「中央と北京市党、政府、軍隊幹部会議」上で布告された、軍隊を出動させ、動乱を鎮圧しようという決定は、政府指導部と青年、学生、知識人、労働者、農民、市民の意識及び願望とを直接対立させて、北京と全国の事態をだんだんと悪化させていった。それは当局の学生運動の対策が一再ならず誤ってしまったことを立証した。