天安門広場で警備にあたった三十八軍の将官、兵士たちは学生の列が天安門に入るやいなや、すばやくトラックに乗り込み、天安門広場から引き揚げた。
天安門広場に入場せず、北京城をぐるりと一回りして堂々と帰校することをデモ行進指揮部が決めた。
二十八日、家族の勧めで鄧小平は北戴河に行った。留守を預かった鄧小平事務室のメンバーは政治局と北京市党委員会が「君主を欺く罪を犯した」と批判したそうである。そして、ただちに鄧小平の談話を撤回するようにと要求した。したがって、談話を遅れて入手した地方は地方の局長クラスにしか伝達していない。
二十六日に、北京、上海では党員幹部大会を召集し、速やかに行動し、動乱を断固として阻止せよと呼びかけた。大会席上、上海市党委員会書記・江沢民は『世界経済導報』編集長の免職処分を宣告し、上海市党委員会宣伝部副部長の劉吉が工作組を率いて、『世界経済導報』社に進駐し、社内の整理整頓を行うことも決めた。
一日遅れて、科学技術委員会も『科学技術日報』社の林自新編集長の免職処分を決定した。その新聞はかつて「四・二二ドキュメンタリー 風ひとしきり、雨ひとしきり、勇壮の歌が君を送る」を発表したからである。
しかし、二十八日の午後、胡啓立は林自新と副編集長の孫長江を呼びよせ、科学技術委員会の決定が正式なものではないから、いままで通りに仕事するようにと励ました。