その日の午後、胡啓立は新聞報道各機関の責任者を呼び集め、前記の内容を伝え、社説の草案作りの作業にとりかかる者を決めた。「文革」「洪広思」の主宰者で「自由化反対」創作グループの「陸仁」の主筆で、北京市党委員会副書記の徐惟誠が執筆することになった。
社説が出来上がってから、ファクスで北朝鮮訪問中の趙紫陽に送った。趙紫陽も同社説の基本精神には賛成すると返事の電報を打った。その時、鄧小平、楊尚昆らは中央の内部ではもう一致を得られたとほっとした。
その日の夜、李鵬を代表として、田紀雲は中央直轄機関と国務院の各部門の責任者にその内容を伝えて、翌日必ず自分の傘下の単位に伝えなければならないと要求した。
教育委員会の何東昌は勇んで率先して行動した。彼はその日の夜に教育委員会の幹部と各大学の学長を集め、翌二十六日の朝四時まで長々と伝達した。聴者の評価では、何東昌の学生への攻撃は李錫銘の奏請報告を凌ぐものであるという。「人民日報」の副編集長は命令を受けて、中南海へ赴き社説を受け取りに行った。本社に戻ってからの同副編集長は二、三カ所用語について手直しをしようと意見を申し立てたが、却下されてしまった。「旗印を鮮明に動乱に反対しよう」という同社説は翌日の新聞の発表に先立って、二十五日の午後と夕方、ラジオ放送局、テレビ局によって報道された。それに激怒した大学生たちはただちにデモンストレーションを決行した。翌日、北京にはこのような政治的ジョークが飛びまわった。
秦城監獄にいる江青は監獄長を呼びよせ、怒鳴りつけた。「なぜ張春橋と姚文元を釈放したのに、私だけ釈放してくれないの?」と。監獄長は「いやいや、釈放していません」と答えると、江青は「このような社説はあの二人の手によるものに違いない。彼らの文体を私はよくわかるから」となかなか納得しない。
北京市党委員会は翌日(二十七日)、市民の一人一人に知れわたらせるようにと要求した。
二十七日の朝八時、北京市大学の学生たちは十六万人にのぼる環城デモを行い、「共産党の指導を断固として擁護する」、「社会主義を擁護する」という横断幕を貼り出し、憲法の条文と鄧小平語録を掲げて行進した。百万人以上の市民が街にくり出して彼らを歓迎した。
市民らの声援のもとに、彼らは兵士と警察の六カ所の警戒線を押し破ることができた。七重の新華門警戒線と八重の天安門警戒線は市民たちが自ら押しのけたものである。学生たちのために道を開け、天安門広場で合流できるようにしたのも市民の力である。