●Date : 4:40pm 10/29/89 From : pcs00372 (直江屋緑字斎)
中南海上層部争いの真相――戒厳にいたるまでの激闘
5 袁木は進んで李鵬に第一線に出させてもらう
「四・二二」の追悼大会後、李鵬は新華社に自分が公務多忙のため、学生を接見する時間がないという旨のニュースを出しなさいと要求したが、すでに「デマを飛ばす会社」という悪名を喰らった新華社は婉曲にそれを断った。「それは北京のことですから、『北京日報』の方がよろしいでしょう」と。
それを聞いた李鵬は性懲りもなくまた「北京日報」に頼んだが、「北京日報」から「そんなことは私たちにはできない」と、きっぱりと断られた。「四・二七」以後、学生代表、ジャーナリストたちはあいついで対話を求めているが、袁木は進んで李鵬に対話に応じた方がよいと提案し、そして自分を対話に出してくださいと申し出た。
教育委員会が丹念に十六大学から学生代表四十五人を選りすぐり、二十八日の夜明けと同時に予行演習までした。対話に入る前に、袁木は党と国務院を代表して演説し、学生たちに授業の再開を望み、李鵬総理の「四・二六」社説についての解釈も伝えた。
対話が終わりに近づいたとき、北京建築工程学院のある学生は、趙紫陽がゴルフをしているスナップ写真三枚が掲載されている雑誌を見せながら、「趙紫陽総書記は毎週一回、夫人を連れてゴルフに行くのではないでしょうか」と質問した。ずっと表情の豊かだった袁木はそのとき、わざとらしくいかにもいわく言いがたいというという顔つきをした。それは難解なもので、人々に強い印象を与えた。まったく殺風景だった対話に小さなハプニングが起こった。