[資料] アピール! 天安門事件: 04(中国人活動家・著)

●Date : 8:29pm 12/20/89 From : pcs00372 (直江屋緑字斎)

中南海上層部争いの真相――戒厳にいたるまでの激闘

 6 総書記は北京に戻り、社説を見直そうとした
 北朝鮮訪問を終えて、四月二十九日に趙紫陽総書記は平壌をあとにして、帰国した。消息通の話によると、北京に帰りついた趙紫陽はまっさきに李鵬と会い、学生運動についての対策をたずねたそうである。
 鄧小平の「四・二五」談話以後、李鵬は発言もし、ポーズもとったが、経済担当者であるという名目でじっとして動かなかった。趙紫陽にたずねられた李鵬は冗談めかして「学生諸君が君に反対し、『官倒』を摘発し、お宅の息子をつかまえようとしているよ」と答えたら、趙紫陽は「取り調べてもいいよ」と真面目に応じた。
 その日の夜、趙紫陽は天安門へ様子を見に行こうとしたが、中国共産党中央委員会弁公庁にに足止めされた。
 その時、北京の巷にこのような政治ジョークが流れていた。
 朝鮮訪問から帰宅した趙紫陽は鄧小平に呼び出された。学生運動に対してどうすればよいかとお伺いをたてたところ、鄧小平は人を殺すんだと答えた。どのぐらい殺せばすむかという趙紫陽の質問に鄧小平は指二本を立ててみせた。「二百人?」と趙紫陽が聞いたが、鄧小平は首を横に振った。「じゃ、二千人?」と趙紫陽がまた聞いたが、あいかわらず鄧小平は首を縦に振らなかった。「二万人ですか」とさらに趙紫陽が質問したら、鄧小平は「いや、違う」と答えた。「それならどのぐらいでしょう」と趙紫陽が再三聞いたところ、鄧小平は「二人、君の息子とおれの息子だ」と言った。
 北京に戻った日に、趙紫陽は地方に勤務している二人の息子に、「審査を受けるように」と自分の態度を表明した。
 北京では同時に「康華公司は解体される」とのうわさも流れていた。
 趙紫陽の秘書兼「政治体制改革研究室主任」の鮑彤と中央農村政策研究室主任の杜潤生は何回も趙紫陽に、どうか常務委員会で根回しをして、表に出て学生運動が終息するように手を打ってください、と訴えた。趙紫陽の朝鮮訪問の留守中、彼の秘書班はじりじりしながら忙しく動き回り、各方面へ出かけて調査研究をし、学生運動の解決策を探っていた。
 その時、趙紫陽が軟弱で能なしであると非難した人がいた。それは国家副主席の王震老将軍である。「共産党はこんなに能なしなのか。学生さえおさえられないなんて、おれは二個中隊の兵士だけで十分に……」と王震は怒鳴った。
 五月三日、趙紫陽は中国共産党中央委員会を代表して「五・四」運動七十周年記念大会において演説した。講演の原案は胡縄の書いたものであるが、政治局の認可を受けている。しかし、政治局が臨時に反ブルジョアの内容を付け加えるようにと趙紫陽に要求したら、即座にはね返された。とうとう原案通りに演説を行ったのである。