●Date : 8:31pm 12/20/89 From : pcs00372 (直江屋緑字斎)
中南海上層部争いの真相――戒厳にいたるまでの激闘
7 趙紫陽「五・四」の演説が局面を変えた
五月四日の午前十時、アジア開発銀行理事会第二十二回年会は人民大会堂で開かれた。開幕式に趙紫陽は参加しなかったが、団長と高級役員との面会という儀礼上の行事だけがセッティングされた。しかも、面会はたったの十分間だという。しかし、その日の夕方、幾億の中国人がテレビのブラウン管を通じて視聴したのは総書記の滔々と論じたてる演説であった。
北京大学のキャンパスでは、何千人もの人たちが集まって趙紫陽の演説の放送に耳を傾けた。演説の放送が終わるやいなや、われんばかりの拍手が湧き起こった。
趙紫陽は演説の中で、汚職腐敗については、法が整備されず、民主的な監督と公開性が足らず、透明度が低いというところに由来するものであると分析し、「冷静で理性的に我慢して、秩序を立てて、民主と法に基づいて問題を解決するように」と呼びかけ、そして、「党と政府にはそのような心づもりがあるし、学生諸君もそうするものであると私は信じている」と話した。
趙紫陽の意見が取り入れられたならば、天安門広場にいる学生たちの激昂した感情は緩和され、さらに最終的に終息にまで導かれる可能性も大いにあることは考えられる。しかし、趙紫陽のその演説はだれとも相談せずに、組織を無視した、規律違反のもので、しかも党内における異なる二つの意見を初めて人民の前にさらけ出したものであると見られる。
一説によると、趙紫陽の演説は鮑彤が書いたものであるという。
学生運動が始まってから、ずっと「デタラメばかり」と学生たちに罵倒されていた「人民日報」は、一面で趙紫陽の演説への積極的な反応をいきいきとした記事で連続して報道するようになった。北京の大学は「五・四」からぼつぼつ授業を再開していった。
五月四日の午後、大学生たちはデモ行進を行った。大学生と市民たちの目を引いたのは数百名のジャーナリストたちが「われわれにデマを強制するな」というシュプレヒコールをあげながら、学生のデモ隊に加わったことである。
五月五日、李鵬は初めて学生運動を制圧する行動に乗り出した。主要な八大学の党委員会書記と学長を集めて、会議を開き、「趙紫陽同志の演説は彼個人の意見に過ぎない。中央委員会の精神は鄧小平同志の談話である」と言った。
同じ日に何東昌は教育委員会の司長、局長の緊急会議を召集した。「趙紫陽同志は朝鮮にいるとき、すでに鄧小平の談話と社説を知っていたし、賛成もした。『アジア開発銀行』における演説は特別な場合、特別な対象に対して行ったもので、党中央を代表して行ったものではない」と何東昌が言った。