現代詩論 徴候としての現在〈下〉 『明治大学新聞』, 1973

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徴候としての現在〈下〉
  〈作品言語〉の夜に向けて
『明治大学新聞』第1310号昭和48年12月6日付(1973.12.6 写真は22歳当時)

「作品言語」の自律する行方はまがいものを総じてふるい落とし、己れの彼方へ急速に馳せていく。まがいものによってしか構成されていない現在は、だが、単に自己崩壊を決定づける徴候として示されている。これは、およそ作品―情況の自然過程ではある。まがいものは己れのもっとも親しき友であった「作品言語」の側から無残にも自滅することを要請され、まがいものの支配する情況は完璧に霧散する。この事態を目前にし、主体としての自己を思うばかりに「語」を塞ぐ蛆虫が、いの一番に血祭にあげられよう。詩人にとっての主体的必然とは「語」の本意からみれば己れを作品自体へ向かわせる、契機の現実性に過ぎない。「書きつぐ行為」とは、憑かれる状態から「語」の自己運動へ己れの主体的必然を架橋させ、その渦中に身を投入するほどの謂である。
 あらゆる作品史は「前史」である。というのは、詩人の側からの主体的必然という水準にしか至っていないために、作品の側からの主体的必然を超えて作品の彼方へ飛翔する「はじまり」以前の段階だからである。故に、「前史」につきものの、夾雑物の芥箱こそ「作品―情況」の現在の姿である。現実性とか、政治、思想との屑をはねのけて翔び立つであろう「作品」は、だが、そうした己れの一切の過去、屑に致命的復讐を、己れへの誕生の燔祭としてとり行うだろう。最も手酷くやられるのは、情況の大半をしめ保身を決め込んでいるぐうたらと、最後のあがきに終始している「詩と思想、生活」主義者である。流行の詩人などというものは、この中を暗躍して裏取引している時代錯誤者に過ぎない。深刻がって理論派ぶる者ほど救いようがないことを知ればよい。

 郷原宏が、現代詩手帖七二年十二月号に「誰がことばを失ったか」という文章を書いている。ここにおける「言語共同体」という、作品―情況の批判的視点は、堀川正美などによる「感受性」の問題を即物的に解釈・拡大したものと見做される。作品―情況はすでに「感受性」を詩人の感性から解き放ち、現実―詩人の関係から「ことば」―詩人における「受感」の問題へと転化していることを思い知ればよい。