現代詩論 〈岐路・迷路〉 その1 『明治大学新聞』, 1974

 
 なぜならば、「伝統と芸」の問題を追い求めてきた岡庭にして、「伝統と芸」との構造的なからくりを、「主体(自我)」不在と「ある秩序」への組織に一元化しているからである。だから、逆に「ことばから入って、そこから現実のほうを手さぐりに追い求めて行くというみちすじ」にこそある思い入れと、その組織化としての芸に対して及ばないのである。「構造としてとらえ」(同)るというのは、実はこのような思い入れとその固定化、つまり作家の絶対性をいうのではなくて、作家と語との関わりの先験性を、その根元から覆すところにこそある。「『芸』の宿命」(同)とは、実にこの先験性と思い入れへの還元のサイクルをいうのである。そしてそれは、限界を絶対性に、自己の観念性へ転化させて、「死語」」の坩堝と化するのである。まるで死者の墓を、木材で、あるいは石で、コンクリートで、共同納骨堂で表わそうとするかの如く。だが死者は、個人として死ぬのではな<、限定された類的存在として死ぬべきである、といわれる如く、類の跡づけの意味をしか持ち得ない。それは己れの類へのみちすじの、ある、限定された、わずかの切片であるだけなのだ。だから死者を装飾する職人たちは、死者を汚濁することのほか、何もなし得ていない。死者はそれらと無関係に、ただ己れの死を類のうちに位置づけるだけである。そしてそのことによってこそ、職人たちに復讐的なのだ。(以下次号)