「『芸』は、たんなる技術的錬磨などの問題ではない。生と表現の、もしくは現実を体験することと、それを認識のコードに置くことの、宿命的な裂け目に根ざした、いわば私たちの近代の病に直接つながっていくアポリアなのである。」
として、岡庭は「芸」の問題を作家と作品との関わりのうちに、伝統としてあらわれることの本質を見落したまま、いわば思想史的な方向の上に、「芸」の問題を重ね合わせようとする。これは、すでに先験性として前提化させている「表現」というものからくるようである。ここでいわれている「生と表現」の構造はそのまま「生活と思想」の関係にアナロジカルである。だが「表現」とは作品の現実的断面であり、結果としての現実であるとするとき、この「表現」は「生を認識のコードに置くこと」という思想の営為からはおよそ遠いものとなる。だから、ここでは触れる要はないが、この箇所の叙述のレヴェルは岡庭の思想的認識を示すものである。しかし、いうところのアポリアなるものの認識が思想史的水準から大きく欠落したものであることは知るべきである。およそ、岡庭の一蹴する「『芸』は、たんなる技術的錬磨などの問題ではない。」という認識こそが、再考されて、その底を覗きみることがなされるべきである。実は、この「技術的錬磨」に向かわざるをえない詩と作家の関わりの伝統のうちにこそ、現代詩の現在がとらわれているのである。
「『芸』とは自己保存の論理であり、防衛の技術である。では、いったい、何から自己を守らなければならないのか? むろん人間存在の本質的な能動性である、思惟することと、日常現実における、自己の即自的な生との分裂から、『自我』を無傷で守りとおそうとしているにほかならない。」