現代詩論 〈岐路・迷路〉 その1 『明治大学新聞』, 1974

 
 ここでいわれている「危機」とは、前出の「私たちの近代にあっては……。」を示すものである。だが、「本質的な表現者」とは何を示すのか。また、何が、何に対して本質的なのか。いみじくも、岡庭は「表現者{思想者)」ということばで表わしている。だから、この括弧で括られたものが本質的であり、つまりは「表現者」という現実と「思想者」という本質とのズレ、あるいはあらゆる背理、うらがえり、というこれらの同一化なし得ない関係を、ある種の基準として計量するという発想がある。それ故、向かうのは「表現」自体ではなく、「本質的な表現」としての「思想」なのである。そこから、この本質と現実との矛盾が、いわれている「危機」なのであり、それ故、「表現者(思想者)の『主体(アイデンティティ)』を『保証』するためにこそ」、「成熟」の先どりが必要とされるのである。
 だが、少し待ってくれ。これは短絡ではないのか。というのは、この「表現者(思想者)の、主体(アイデンティティ)」とは何を示すのか、ということである。それは、本質と現実の、だから思想者と表現者の自己同一化をいうのか。あるいは、能動性というところの表現者を指すのか。また、自己の内的世界そのものである思想者を示すのか。それとも、それらとは実は無関係な、俗なる己れの生そのものをとりあげているのか。そのあたりの事情が明確でないということが、実はこの「主体」自体のレヴェルがどこにあるかをいい得ないところのものなのである。だが、感じとれるのは、俗なる己れの生そのものではないか、ということである。というのは本質と現実との自己同一化という本質論に対して、もっとも対峙し得るのは、その本質論を裏返しているような現実性だからである。だからその点でいえば、「仮構」しえる「成熟」とは、その現実性から上記の本質論の仮構なのである。これは確かに「近代」を貫く「知」ではある。だが「近代の『知』をつらぬく、もっとも基本的で、もっとも宿命的な構造」ではなくて、現実を生きる「知」の一つの処方箋でしかない。それはこの文章における「一義的には、商品としての文学生産を保証するためになされるのではない。」という、レヴェルの区分をまさしく裏切り、そのことと軌を一にしたものに他ならない。故に、この「成熟」なるものの「仮構」の「保証」する「主体」とは、「語」の交換過程という社会性でしかない。それは、「語」の〈インクのしみ)としての現実性にすべてを放り込んだところのものである。だから「事態はまったく逆なのではないか?」(同)。その交換過程、交通する〈インクのしみ〉の電圧をあげるためにのみ、ひきつがれてきた「知」という――。そのためにこそ、「ことば」を「表現」というレンズに固定することによって、そのレンズが映し出す奇怪な思想に電圧を上げる任を与えたのではないか。また、俗なる生そのものの絶対性にあえなく「仮構」させられる程度の「思想」が、まことに簡単に「危機」にいたるために、それをはぐらかすためのコツが量産されたのではないのか。そして、そのコツの擁護のために、「表現の絶対牲」が根拠としていわれているのではないか。つまり、現実と思想とのふれあいに、アナロジカルに現実と「語」のふれあいの相対性を「仮構」したのではないのか。