現代詩論 〈岐路・迷路〉 その1 『明治大学新聞』, 1974

 
 これは、明確な政治技術論である。その意味では全き正しい。だが、これが作品と作家との関わりについての叙述であることによって、完璧な錯誤である。岡庭は「表現」に関わりすぎる、と前に述べたが、加えて「作家主体」いや「作家」の人間論に関わりすぎるといえる。
「芸」とは、作家の自己保存の論理ではなく、伝統性として現在というかたちであらわされる、作品と作家との関わりの全体をいいあてる原理である。だから、「守らなければならない」のは、作家の所有による作品の、交換過程としての「表現」という二元論の化け物なのである。政治が、つねに交通過程を要する如く、そのさまざまな場面を組織していくという、その場面を、岡庭のように詩の現在へ、逆に「作家」の人間論や「作家主体」あるいは「表現」の絶対化を媒介に辿りつこうとしても、無駄であることを思い知るがいい。次に続く「私たちの近代にあっては、本質的な表現者であろうとすることは、自己を傷つけることに、いやほとんど解体させてしまうことに等しいといえる。」ということが「傷つけたり」「解体させて」しまったりというヒロイックなナルシシスムによって、詩人というチャチな実存から絞りとったって、うさん臭い亡霊さえもないこと知ってのことと願うばかりだ。だから、「明白な悲劇」(同)どころか、単純で馬鹿々々しいぐらいの「喜劇」でしかないのだ。
「悲劇」を選ぼうが、「喜劇」を選ぼうが、そんなことは作品とは無関係な、俗物の趣味でしかない。

「こういう『危機』を敏感に感じとったとき、必然的に奇妙な倒錯が生まれざるをえない。つまり、『成熟』をかたちとして先どりするという倒錯である。この倒錯は、さらに逆説的な事実としていえば、一義的には、商品としての文学生産を保証されるためになされるのではない。――中略――なによりも、こういう『成熟の先どり』は、表現者(思想者)の『主体(アイデンティティ)を『保証』するためにこそ、必要とされなければならなかったのである。つまり『成熟』の仮構こそが、明確な『主体』の仮構になりうるのだ。私たちの近代の『知』をつらぬく、もっとも基本的で、もっとも宿命的な構造こそ、こういう倒錯にほかならなかった。」