現代詩論 〈岐路・迷路〉 その1 『明治大学新聞』, 1974

「語」がかくして、感動という神に死を宣告するときにこそ、まさしく「語」の本来に至るのである。浄化作用は、思いもかけぬほど強烈に、あらゆるものを無能と下劣さの縁へ導く。「語」を完璧に支配しているという帝国主義者どもは、裏を明かせば、「語」の一斉蜂起によって、現在支配されている低能に過ぎない。作家と「語」がとり結ぶ関係が、書く行為であるとすれば、批評家の対象は書かれた「語」をさらに書き続けるということである。批評家は作品について書く、註釈を、語を。だが、解釈学の徒とはならないのである。彼は、その作品によって、己れの註釈の語という形態を仮りながら独自の作品を書く。
 批評の原理とは、およそこのようなものである。書かれたものという結果に解釈学という死の語を附加させるのではなく、書かれたもののうちに、己れのはじまりを予感―宣言され、それをさらに突き放し、書くことのうちに生きるという、まさしくこれが唯一の原理である。
「語」は、何よりも作家と「語」との受感によってはじまりを示す。このはじまりは、だがはじまり以前の、いわばはじまりへ向かう呪文として、作家と「語」とを書くことに生きさせる最良の状態――憑かれた存在へ導き入れる。作家は、およそ書くことのうちに己れの一切を、つまりあらゆる現在を払いのけて、投入する。作家は、もはや正常と呼ばれる己れのすべてから逸脱する。このとき作家は、己れの現存というあらゆる疎外の表徴である。だが、それは己れを含めた世界から逸脱する道の際にあるというだけで、およそ還元するという世界の習性とは異なっている。作家は、「語」が「語」へと結ばれ作品の彼方へゆきつくうちで、格好の生の具現者である。というより、「語」にとっては作家との密通なしには己れの未来を成し得ない、姦夫という役割を与えられる。だがそれは「語」にとってそれなしには己れを生かしめ得ないという必要条件に過ぎない。「語」は己れの進行において、作家の気質、テクニック、発想、持続性その他を選択することによって、速度を増大させるエネルギー源とする。作家が書き継ぐ場合、この「語」によって選択されたエネルギーと、憑かれることの受感の同調によって可能なのである。