だが、「――現実らしさを仮構するような『方法』が必要とされる。」(同)という岡庭の視点は正しい。しかし、問題はこれ以後なのである。つまり「現実らしさを仮構する」ということの意味である。この「現実らしさ」とは、実はただ単に、方法の一つであるということにはならないで、方法の根底を蔽い込んだものなのである。
なぜならば、この「現実らしさ」とはリアリスムの問題なのではなく、「語」を二元論の交換過程に追い込んで、なおかつ延命させようとする、あの、「感動」という名の、交換価値、交通のリアリスムを指すのであり、その中身は、それを支える「技術」なのである。誤解に充たち認識とは、作家と「語」との関わりを同一化して視るという伝統であり、これを支える芸の「現実らしさ」なのである。「現前する世界」(同)と結びつけた「ことば」こそが、この始まりであり、その補完物こそ「現実らしさ」である。
ここでいわれていること、若干ながら把握しづらいことを省いていえば、まず「主体」ということばが、「『技術』としてしかあらわれようのない『態度』」としての、つまり、前に述べられている「仮構」された「主体」を示し、それ故に、それは「ことばのかたち」を定めることに関与している。だから、ここでは「態度」が「ことばのかたち」としての「仮構」された「主体」であるとしている。故に、後半の文章では、いいかえるならば「仮構」された「主体」が「主体」(自己)を決定する「転倒」ということをいっている。だがこの箇所はどうも腑におちないのだ。というのは、岡庭のいいたい点であるところの、ア・プリオリな「主体」と括弧で括った自己としての「主体」との関係が曖昧なのである。これは前に述べた「表現者(思想者)の主体(アイデンティティ)」の問題と、実は等しいことなのではあるが。確かに、「『技術』としてしかあらわれようのない『態度』」が正当な見方であることはよい。だが、これが「主体」と「ことばのかたち」をイクォールで結ぶものであるのかということである。そのあたりから、その「主体」と「主体」(自己)の把握が不明瞭ならざるを得ないのである。ひとつとしては、この「態度」こそが、ア・プリオリに「仮構」した主体、つまり「本質的な表現者」としての仮構を示すというところの、実は「俗なる生そのもの」の側から「本質的な」表現者イクォール思想者の自己同一を「仮構」する、いわゆる主体論的なレヴェルをいうのに対し、つぎには、それによる「技術」への全体の解消(カタルシス)という「芸」「ことばのかたち」という「作品」論に、ダブらせていっているのである。岡庭自身が自覚しえているはずの、「伝統を支える芸」という関係が、ここでは「態度」へ向かって還元されるという破綻をきたしている。