<自分というものは、自分の考え方ではない>
自分の性分や気質というものがあると思っているが
考え方、考え、価値観などいろいろ
そういうものが、自分だと思って人はいたりするが
赤ん坊の息子を見ていて、
それは後天的なものであって
あなたのカラダこそが、変わりにくい本質であり、
どうとでも変わる気質や価値観の受け皿かと思う。
体験やそこでの思いが、その人の人格形成をするが、
それも、タマタマなんだと、知っておくことも必要かと。
そういう体験に影響されただけだということを。
<シンプルな子供、シンプルでなくなった大人>
物事に影響される前の
赤ん坊を見ていると、とても単純だ。
「お腹が空いたら、泣く」、とてもシンプルだ。
小学生くらいの時も、とても思考はシンプルだった。
高学年になってから、少しずつ、翌日に引きずるような思いができていたが、
それまでは、翌日に引きずるような思考はなかった。
いろんなことに出会い、比較したり、気にしたりして
どんどんと、要らぬことを考えるようになるような
最近は、そういうことを「思考のお漏らし」と自分では
考えている。
過去のことを混ぜっ返したり、人と比較してあれこれ思ったりは
「思考のお漏らし」かと。
知らないでいるべきことは、知らないでいるということも必要かと。
国際社会は、いろんな問題があるが、子供が聞いても、
とても退屈なニュースでしかなかった。
それよりも、ちょっとした家庭や友達のとのやりとりが大事だった。
そういうことは、とても大事かと。
外よりも内。
内から始めて、外になる。
幼稚園の縮図が、国際社会という子供クラスになっているみたい。
<子供から学ぶこと>
例えば、学ぶということは、「好奇心をつなげていく」ということだと思うが、
それを他人と比較して、競争したりするのは、本質的ではなく
やはりエネルギーもお漏らしであり、ストレスというカビの繁殖かと。
息子を見ていると、とてもシンプルに生きている。
僕も、もう少しシンプルになっていきたいと思った。